第二章 階段
一晩中降り続いた雨が、朝になってようやく止んだ。
ホタルは身を寄せるレンゲの部屋から、黒い雨に打たれた下界を見下ろした。
雨粒の痕跡はすぐに乾いて見えなくなっても、その毒は大地を確実に蝕んでいるのだろう。
「あんにゅーいな顔してどうしたんですの?」
気付くと、レンゲに真横から覗き込まれていた。
「うわっ、顔近っ!」
レンゲはにししっと笑い、ホタルから離れた。
「思ったより元気そうで良かった。それじゃ、レンゲはお出かけですの」
「え……出かけるの?」
つい心細い声が出てしまう。幸いレンゲは、棚の上から彼女の大好きな蜂蜜の壺を下ろすのに夢中で気付いていない様子だった。
「ふふ、蜂蜜の蓄えが減ってきましたから、補充しないといけないんですの」
「うえ……蜂蜜……」
ホタルはついさっきも味わったばかりの恐ろしい味覚を思い出して、口を押さえる。そりゃあ、三度三度どんな食事にもあれだけたっぷり蜂蜜を使っていれば減るのも早いだろう。
「むっ、今何か失礼なことを考えてたんですの? 言っておきますけど蜂蜜は、ライフの最大値をアップさせるエンチャントアイテムの中で一番お手軽なんですの。レンゲはこの世界でのサバイバルの効率をちゃんと考えて……」
「そういえば、本当は砂糖が良いのにって言ってたわね。砂糖もそのライフとかの最大値をアップさせてくれるの?」
「? お砂糖はただの嗜好品ですの。あ、でも蜂蜜よりも甘さが上品なんですの。貴重なアイテムだから滅多に食べられないですけど、本当はお砂糖で卵焼きを作りたいんですの~」
「……」
語るに落ちる以前のレベルだった。
しばらく想像の中の甘い物へ陶酔して口元をふにゃふにゃにしていたレンゲは、我に返って別の棚を漁ると、革に包まれた何やら細長い物をホタルに手渡してきた。
「レンゲが狩りに行っている間、ホタルにはこれで留守番をお願いするんですの」
「え、留守番? ……って重い!」
レンゲが涼しい顔のまま片手で渡してくるから片手で受け取ろうとしたら、ずっしりと重く右肩から腕がもげそうになり、慌てて両手で持つ。
包みの紐をほどくと、現れたのは一振りの長剣だった。
鞘には青紫の石で薔薇の花の象眼が施され、金の柄は鳥の翼を象っている。
恐る恐る鞘から抜くと、金属であるにも関わらず半透明のような両刃の刀身の眩い輝きに思わず目を瞑った。
「前にも言ったようにここは高層階ですから危険はほとんどないんですの、けれどたまに飛竜タイプのモンスターが襲ってくることもあるんですの。これはその時のための用心ですの」
剣に見入っていると、レンゲが窓を指差しながら留守番の注意点を説明してくれる。
「襲ってくる?」
ここに来てから数日間、空からモンスターが襲ってきたことなどなかったが。
「そう! だいぶ前に一度、窓辺に置いてあったレンゲの卵焼きがさらわれたんですの!」
その時の記憶が甦ったのか、レンゲは拳を握り締めてぷるぷると震えている。
「……しょぼいわぁ」
あの卵焼きをわざわざ奪うなんて、奇特なモンスターもいるものだ。
「あ、また何か失礼なこと考えたんですの?」
「いえ何も。それより、食料の調達なら私も手伝うわよ」
ホタルがそう言うと、レンゲは目を丸くし、慌てたように手を振った。
「駄目ですの、危ないですの! 外はこないだホタルが見たような凶暴なモンスターがウロウロしてるし、これから獲りに行く蜂蜜だって、飛翔型で毒針がある上にやたら数の多いモンスターを倒さないと手に入らないんですの。ホタルは留守番を……」
「ごめんなさい。でも守ってもらってるばかりは性に合わないの。これぐらいさせてよ」
剣の重さに少しふらつきながらも、足を踏ん張って構えてみせる。レンゲには助けてもらって、ここに居候させてもらって、食事もご馳走になっているというのに、何もしないわけにはいかない。
何を言われようとついていくつもりで毅然とした顔をしていると、レンゲはどういうわけかびくっとして、上目づかいになった。
「……ひょっとして、レンゲの下心ばれてたんですの?」
「下心?」
ホタルは首を傾げる。その仕草をどう捉えたのか、レンゲはますます怯えるような表情になった。
「その、ホタルを助けてこの家に連れてきたときに、少しだけ考えたんですの。ホタルと仲間になりたい、それで一緒にパーティーを組めたらって。レンゲはずっとソロだったから、パーティーを組む仲間ができるなんて夢のよう……でもこれはレンゲの勝手な私利私欲なんですの。狩りはソロでやるよりもパーティーの方が効率も上がるし、より安全になるから……レンゲは、ホタルを利用しようとっ」
レンゲが泣きそうになっている。ホタルは剣をいったん置いてレンゲに歩み寄ると、右手を伸ばしてレンゲの手を握り、左手も伸ばして包みこんだ。
「レンゲが助けてくれたから、私は今こうして生きているのよ」
それに仲間が欲しいと思って、何がいけないのだろう。そんな当たり前の欲で、レンゲがくれた優しさは嘘になったりなんかしない。
自分だって、恩に報いたいというのは建前で、レンゲと一緒にいたいというのが本音だったかもしれない。
「むしろ、こちらからお願いするのが筋ね。その、貴女とパーティー? を組んでサバイバルゲームだっけ? を一緒に戦わせて。足手まといになってしまうかもしれないけど。私はもうとっくに貴女の仲間よ、レンゲ」
「仲間……」
こうしていると頭一つ背が低いレンゲが、涙が滲んだ瞳でホタルを見上げる。レンゲがそうしてくれたように微笑みかけると、不安げだった顔がぱあっと明るくなって、照れ隠しにそっぽを向いて、最後にはえへへ、と嬉しそうに笑ってくれた。
「そうと決まればお任せですの! この策士レンゲがみっちり指導してホタルを一人前のプレイヤーにするんですの。それまでは、レンゲがホタルのことを絶対守ってみせるんですの!」
この世界に絶望していた私を、元気にしてくれたレンゲ。私を仲間にしたいと思ってくれたレンゲ。レンゲには、明るい笑顔が一番似合ってる。
仲間――
ホタルは、そこでふと既視感を覚える。
固く握り合った、二人の手と手。
そうだ。この世界ではないどこかで、誰かとこうやって契りを交わした。
それは誰で、その後どうなったのだろう。
思い出せない。
「行ってくるんですの~」
「行ってきます」
二人で出かけてしまえば誰も残らない建物だが、レンゲに倣い、そう暫しの別れを告げて居心地の良い住処から一歩を踏み出す。
日中に外に出るのは初めてだった。舞い上がる砂塵のために視界は限定され、空は雲に覆われ続けているが、それでも微かな切れ目から注ぐ陽光のおかげで、大小様々な残骸の散らばる街路が遠くまで見渡せた。
地中から突き出した棒状の金属や尖った破片にぶつからないように注意しながら歩いていると、レンゲはあっという間に街路の反対側の身を隠せる場所まで先行して、周囲の安全を確かめてからこちらに手招きしてくる。レンゲが用意してくれたベルトで腰に吊った剣の重さにどうにか耐えながらレンゲのいる地点までたどり着き、隆起したコンクリート塊に背中を預けて息をつく。
「やっぱりその剣、ホタルにはまだ重すぎたんですの?」
「すぐ慣れるわよ……それにしても、こんな立派な剣があったのにレンゲは使っていなかったのね」
見たところこの剣をしまっていた革の包みは埃を被っていて、長い間使われなかった様子だった。ホタルが当初、両手を使って足をふらつかせながらようやく持てたこの剣の重量。恐らく、装備する者に要求される筋力のステータスが、ホタルではぎりぎりか、あるいは届いていないのだ。それをレンゲは難なく片手で持ってみせた。モンスターとの戦いで鍛えてきたレンゲなら、この剣を使いこなせるはずなのに。
「レンゲは近接格闘はそんなに得意じゃないんですの。それに、レンゲにはこのヴァイオリンと『音』があるから」
レンゲは背負ったヴァイオリンの弦を、指で軽く弾いてみせた。
誇らしげなレンゲの顔のどこかに、しかし一抹の寂しさがよぎったのにホタルは気付く。
『レンゲは生きるためにヴァイオリンの音を戦いに使うから、武器としてどれだけ強くできるか考えているけど、耳で聴くための音色も本当は大好きなんですの。でも、今までは自分以外に誰も聴いてくれなかったから』
ホタルを元気づけるためにヴァイオリンの弾き方を教えてくれたレンゲが、ぽつりと言ったことだ。これからは私がレンゲの音を聴こう。ホタルはそう胸に念じた。
レンゲは武器に関する説明を続けている。
「ホタルに渡した剣は、ホタルが眠っていた病院の近くにある教会の遺跡で偶然拾ったアイテムですの。レンゲは使わないけど捨てるのも勿体無いからとっておいたんですの。まあこれも何かの縁、ホタルにあげるんですの」
「そっか、あの病院の近くに……」
レンゲについて再び街路を歩き出しながら、剣のどこかに見覚えが無いかよく見ようとして、重みでバランスを崩した。
身体を支えようと、横にあった廃墟の細い円柱のようなものに手をつこうとする。
「それに触っちゃ駄目ですの!」
唐突にレンゲが叫んだ。びっくりして飛び退いた拍子に、剣が円柱に軽くぶつかる。
直後、上で何かが揺れる重い音がして、降ってきた水がびしゃっと足元で跳ねた。黒い水だった。
「この水、ひょっとしてあの雨と同じ……!」
「そう。こいつは大昔、まだ世界が今みたいになる前に、人間が雨水を蓄えるために造った甕ですの」
駆け付けたレンゲが、まだ驚いて円柱を見上げたままのホタルを掴んで引き離した。
「有毒な黒い雨がここに溜まって、水分が蒸発していく分、毒素だけが濃縮されているんですの。レンゲも昔浴びかけたことがあって、運良く持っていた傘で防いだけど傘は数秒で溶けたんですの」
お気に入りの傘だったのに、と愚痴るレンゲにホタルはおずおずと訊く。
「その……私達が直接浴びるとどうなるの?」
「最高レベルのモンスターでも、ライフが減り続ける状態異常がかかって長くは生きられないんですの。推して知るべし、ですの」
改めてこの世界が危険に満ちていることを認識して、ホタルは剣を強く握り締めた。
「また助けられたわね、ありがとうレンゲ」
「ホタルは本当にこの世界のことを何も知らないんですの、これは教えることが沢山ありそうですの……伏せて!」
再びレンゲが叫ぶ。先ほどと違い低い声で。言われるがままにホタルは瓦礫に身を隠す。
「今度は何?」
横で腹這いになっているレンゲに囁くと、レンゲは取り出した双眼鏡から目を離さないまま、街路の先を指差した。
両側の建物の残骸が散らばる街路には、目を凝らしても動くものなど何も見えない。そう言おうとしてホタルは、はるかかなたにゆらゆらと蠢く人影を見つけた。
「さすがじゃないレンゲ。あれってもしかして、私達みたいな人形じゃ」
顔を綻ばせたホタルに、レンゲは険しい表情のまま双眼鏡を譲ってきた。覗き込むと、人影がより鮮明に見えた。全身を黒いマントで隠し、顔はフードですっぽりと覆っている。
「前にも狩り場に行く途中、遠くから見たことがあるんですの。恐らくあれは、都市廃墟に出没する人間の幽霊……!」
「いや、幽霊じゃないって。だって足あるわよ」
マントの裾から少しだけ、ブーツが覗いているのがはっきりと見える。それでもレンゲは緊張を解かない。見れば、肩がかすかに震えていた。
「幽霊でなかったとすれば、DKですの」
「……でぃーけー?」
「ドールキラー、人形殺しですの。これまでもモンスターがポップしないはずの場所で、人形の亡骸が散らばっているのを何度も見たことがあるんですの。つまりモンスター以外に、人形を狩る人形がいるってことですの!」
「そうかなあ、人形が同じ人形を殺すとは思えないけど……レンゲは実際にそのDKを見たことがあるの?」
「え? それは……」
レンゲが口ごもる。ホタルは、レンゲがソロプレイヤーどころか他の人形とこれまで一切接触したことがなかったことを思い出した。レンゲに向き直る。
「あのね、レンゲ。確かにレンゲの言う通り、リスクはあるかもしれない。けれど私は、この世界のことを少しでも多く知りたいの。あの人形と話をしてみたい」
「駄目ですの、他の人形と接触だなんて危険過ぎるんですの」
「私とレンゲは、仲間になれたわ」
ホタルは立ち上がって人影へ歩き出す。レンゲも慌てて追いかけてくる。
「ちょっとホタル!」
「後ろで見張っていて。もし相手に攻撃する気配があったらバックアップをお願い」
残骸を避けて人影の方向へ早足で向かう。ホタルがある程度近付いたところで、人影はこちらに気付いたらしく足を止めた。
「おーい」
敵意が無いことを示すために、ホタルは両手を振った。人影は再び動き出し、ホタルの方へゆっくりと歩み寄ってくる。ホタルよりやや小型だが、やはり人形だった。
ホタルと相対し、人形はフードを外す。
整った美貌が現れ、長い髪がふわりと広がった。
前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、後ろ髪はゆったりとウェーブしている。髪の色は雪のようなプラチナブロンドだった。
「初めまして。私はさすらいの行商人、セシリア・リープクネヒトです。主にラーメンを商っております」
淑やかだがどこか威厳を感じさせる声で、人形はそう名乗った。切れ長の目が、ホタルを真っ直ぐに見つめている。
「初めまして、私はホタルよ」
挨拶する段になって、自己紹介で言えることがあまりにも少ないことに気付く。記憶が無い状態で目覚めたばかりだから仕方ないのだが。
幸いなことに、相手はレンゲが恐れていた幽霊やDKとかではない様子だった。しかし、ラーメンとは一体何だろう。
「えっと、セシリア・リープクネヒトさん。貴女はどこから来たの?」
気になることは他にもあったが、まずはこの世界に関するとっかかりを掴もう。そう思ってホタルは訊ねたが、自称・行商人の人形は静かに首を振って、何故か空を見上げた。
「私がどこから来て、どこへ行くのか……大変残念ながら、それはボウヒです。故にお答えできません」
「……。貴女は一人なの? 他に仲間はいないの」
「それもボウヒです。申し上げられません」
人形の声は流麗で言葉遣いは気品に溢れていたが、内容は全くもってつれなかった。
「そう……質問ばかりしてごめんなさい。ちなみに、ラーメンって何? それもボウヒ?」
内心がっかりしたホタルは、会話を終わらせるつもりでそう訊ねた。まさか、それで相手の態度が激変するとは思わなかった。
「よくぞ訊いて下さいました……!」
セシリア・リープクネヒトがずいっと身を乗り出してくる。口調や表情は相変わらずだが、身に纏っているオーラが先ほどまでと違う。何やら、この人形の心の琴線に触れてしまったらしい。
「清く正しく美しく、散歩に読書にニコニコ貯金。週末は釣り、ゴルフ、写経。世のため人のため社会のため。ラブ・アンド・ピース・アンド・トゥギャザネス。ごめんなさい、ひとこと言えるその勇気……!」
空に手を伸ばす大仰なポーズをとって、独白を始めるセシリア・リープクネヒト。
ホタルは唖然としていた。
凄そうだけど。結局ラーメンって何なの?
「……ところで、私からも一つ訊かせて頂いてよろしいでしょうか」
セシリア・リープクネヒトは、すっとホタルの背後を指し示した。
「後ろに隠れておられるのは、貴女のご友人ですか?」
「レンゲのハイディングを見破るなんて、こいつ只者じゃないですの」
道路に倒壊した建物の陰から這い出てきたレンゲは、ヴァイオリンを構えたまま警戒感剥き出しで開口一番そう呟いた。セシリア・リープクネヒトは目を細める。
「ホタル殿のご友人は、まこと奇妙な武器をお持ちなのですね」
「……!」
これにはレンゲだけでなく、ホタルも目を丸くした。戦闘の場面を目撃したならいざしらず、今、レンゲのヴァイオリンが武器だと一目で看破するとは。
「それで、こんなところで何をしているんですの?」
レンゲの詰問に、ホタルは小さく溜め息をつく。レンゲは今までの会話を聞いていなかったのだろうか。彼女が商っているというラーメン以外の質問はどうせまた『ボウヒ』だろう。そうホタルが諦めていると、意外にも答えが返ってきた。
「実は……ラーメンの屋台をひいて近くまで来たのですが、屋台の車輪が穴にはまり込んで動かなくなってしまったのです」
人形の指差す方向を見ると、二輪の荷車に屋根をつけたものが停まっていた。近付くと、彼女の言った通り道路の舗装に亀裂ができて大きく陥没したところに車輪の片方がはまり、荷車が傾いている。
「私一人の力ではとても……。困りました。このまま日の当たる場所に置いておくと、食材が腐ってしまいます」
言葉に偽りはないように思える。そうなるとホタルの決断は早かった。
「手を貸しましょう」
ドレスの袖をたくし上げる。さらに邪魔になる腰の剣を地面に下ろそうとすると、レンゲに腕を引っ張られた。
「ちょっ、何をしてるんですのホタル、こんな怪しい奴を信じるなんて正気の沙汰じゃないですの! 罠かもしれないし、一万歩譲ってそうでなくても、レンゲ達にはこいつを助けるメリットは何も無いんですの!」
ホタルはレンゲの顔を見る。意地悪などではない、あくまで真剣な表情。当然だ、レンゲは今までこの考え方で、過酷な世界を一人きりで生き延びてきたのだから。
ホタルを助けたのは例外中の例外、その時の葛藤は相当なものだったに違いない。
ホタルは、自分がレンゲにとって特別であることを改めて嬉しく思った。
だからこそ。
「貴女が廃病院で私を救ってくれたように、私もこの人の役に立ちたい。それにメリットなら、もうあったわ。この廃墟とモンスターだけに見える酷い世界で、私とレンゲの二人以外にも言葉を交わせる存在に出会えた。それは私達二人にとって、希望という大きな収穫よ」
「希望……」
呟いて黙り込むレンゲに背中を預け、今度はセシリア・リープクネヒトに告げた。
「セシリア・リープクネヒトさん。貴女が出自を隠しているように、私達も貴女を完全に信じるわけにはいかない。この荷車は、私と貴女の二人で持ち上げる。その間、ここにいる私の仲間は後ろで監視をして、貴女が少しでも怪しい動きをしたら実力を行使するわ。それでもよければ手を貸すけど」
険しい視線を送る。セシリア・リープクネヒトは気を悪くする様子もたじろぐ様子も無く、深々と頭を下げた。
「まことにかたじけのうございます」
肝の据わった人形のようだった。
「じゃあ私はこっちを持つから、貴女はそっちをお願い。いっせーのーせで持ち上げるわよ」
セシリア・リープクネヒトが頷いてしゃがみ込むのを確認して、ホタルもはまり込んだ車輪の一方に取り付いた。
「いくわよぉ……「いっせーのーせっ!」」
二人で同時に車輪を持ち上げる。しかし。
車輪を僅かに浮かすだけで、両腕に凄まじい負荷がかかり、膝が震えた。荷車の重さは予想以上だ。
「……いったん放しましょう」
「うう……重力に魂が……」
ほぼ同時に二人は根を上げた。
その後、二度三度と繰り返しても、結果は変わらなかった。
「ホタル殿……」
めげずに車輪に向かうホタルの前で、セシリア・リープクネヒトが改まって膝をついた。どうしたのかとホタルが思っていると、悲しげに目を伏せる。
「ホタル殿、会って間もない私などのためにここまでして下さり、まこと、感謝の言葉が見つかりません。もう十分です。口惜しいですが、屋台はここで諦めます」
「まだよ!」
ホタルは、泥だらけになった手で車輪を掴んだ。正直、最初より自分の力が衰えているのを感じるが気にしない。
「ここまできて諦めたらこっちも寝覚めが悪いのよ。もう一回!」
セシリア・リープクネヒトが目をぱちくりさせ、急いで配置につく。
「いくわよぉ、いっせーのぉ」
「「「せっ!」」」
掛け声が、三人分になっていた。見ると、車輪とは別に、荷車の後ろが誰かの力で大きく持ち上げられている。
「二人ともっ、手を放すんですのっ!」
レンゲだった。ホタルとセシリア・リープクネヒトが車輪から手を放した瞬間、荷車は勢いよく前へ押し出され。はまり込んでいた亀裂を抜けた。
「全く、見てられないんですの……車輪を上に持ち上げるだけじゃなくて、同時に横方向にも動かさないと元の亀裂に落ちるだけでいつまで経っても抜け出せないんですの。少しは頭を使うんですの」
ぶつくさ言いながらそっぽを向いているレンゲに、ホタルは駆け寄った。気付いた時には両手をレンゲの背中に回して、ぎゅっと抱き締めていた。
「ありがとう、レンゲ! ……あれ、レンゲ? 大丈夫?」
どういうわけか泣き顔になっているレンゲを見てホタルが首を傾げていると、荷車を日陰に移動させていたセシリア・リープクネヒトが戻ってきて、再び深々と頭を下げる。
「おかげさまで、大切な商売道具を失わずに済みました。これで商いを続けていけます」
セシリア・リープクネヒトはそこで何故か、瞳を妖しく輝かせた。
「お二方には、お礼をしなければいけませんね」
「「……お礼?」」
荷車の屋根から、暖簾がかけられた。これが屋台というらしい。暖簾は鮮やかな黄色で、黒く文字が記されている。
「なんて書いてあるかわかる、レンゲ?」
「ラーメン……二……何?」
屋台の前に用意された椅子に勧められるがまま座ったホタルとレンゲに向かい合って、セシリア・リープクネヒトは火をおこし、てきぱきと調理を始めた。先ほどまでのおっとりした振舞いとは対照的に一切無駄の無い素早い動きで、それでいて丁寧に……変わった匂いのする真っ黒いたれに漬け込まれた分厚い肉の塊を取り出し、包丁でぶつ切りにしていく。
寸胴鍋にはおびただしい肉の脂でギトギトしたスープがぼこぼこと煮立っている。先ほどの肉の塊をその鍋に放り込み、年季が入ってすり減った木のへらでかき混ぜる。別の寸胴では、濃い緑と灰色が混ざったような色をした極太の麺が茹でられている。
この世界で、よくこれだけ豊富な食材を取り揃えられるものだと素直に感心はする。それに料理するセシリア・リープクネヒトの所作は、とても洗練されている。相当に手慣れており、達人の域に達していると言ってもいい。……だが、その手で今まさに生み出されんとしている料理は、全く洗練されているようには見えない。
「こ、これはもしかすると、レンゲの卵焼きを超えるかも……」
「ちょっと、今失礼なこと考えたんですの!」
「わ、私は普通に褒めようとしただけよぉ、変な想像するレンゲの方が失礼なのよ!」
二人で不毛な口論をしていると、屋台の店主がおもむろに鍋に耳を近付けた。恍惚の笑みを浮かべている。
「あの、何を……?」
「ラーメンの声を聴いているのです」
「は、はあ」
「味の乱れは心の乱れ、心の乱れは家族の乱れ、家族の乱れは社会の乱れ、社会の乱れは国の乱れ、国の乱れは世界の乱れ……」
美女が不思議なリズムをつけて呪文のようなものを唱えながら鍋をかき混ぜる姿にホタルは、お礼を断って逃げれば良かったと半ば本気で後悔し始めた。あの鍋から蒸気とともに立ち昇る脂分が身体の関節まで入ってきそうだ。
「ニンニク入れますか?」
料理が終盤に差し掛かったと思われる頃、セシリア・リープクネヒトが唐突にそう訊ねてきた。この場には彼女以外にホタルとレンゲしかいないから、二人に向けて質問しているようだ。何のことかわからなかったのでレンゲをちら見したが、レンゲも何のことかわからないらしく固まっている。
ホタルは混乱気味の頭を懸命に働かせ、タイミングからして料理の味付けを訊いているのだろうと結論付ける。こういうのは自称策士のレンゲの方が得意のはずなのにと、横目で仲間を睨みながら、
「じゃ、じゃあ、二人ともお任せで」
「では、ヤサイマシマシニンニクアブラカラメ、にいたしましょう」
再び呪文が詠唱されたが、今度の呪文の意味はすぐに判明した。
大きなどんぶりに、麺と肉が豪快に盛り付けられ、そこに肉塊が漬かっていたのと同じ黒いたれ(変わった匂いがするが恐らくは醤油)と、スープに浮いていた脂が投入され、そして最後に、軽く茹でただけでほとんど生の野菜が、文字通り山のようにのせられた。ニンニクという、細かく刻まれて強烈な匂いを放つ球根も一緒だ。
「大ラーメン豚ダブル麺硬、ヤサイマシマシニンニクアブラカラメ、お待たせいたしました」
どんっ、どんっ。
目の前に置かれた巨大などんぶりの迫力に圧倒される。はみ出した野菜から煮え滾ったスープが滴る。複数の匂いが混然一体となり嗅覚を麻痺させる。とにかく量が多くて、豪快で、分厚くて、濃厚で、熱い。
「ええっと……これがラーメン、ですの? この上の山みたいになってるのは、モヤシ?」
レンゲが、消え入りそうな声で訊ねた。反対に白銀の髪の店主は、満面の笑みで頷く。
「旧時代の書物を読み解き、かつてこの地で栄えていた『ラーメン二郎』なる流派の味を再現いたしました。本日当店は貸切、『ロット』もありません故、どうぞごゆっくりお召し上がり下さい」
そう言われても、どうやって食べていいかもわからない。多過ぎるモヤシで下の麺が見えないし、モヤシをどけるスペースすらないのだ。下手に崩せばどんぶりからはみ出してしまう。そんな二人に気を利かせたのだろうか。
「……少し作り過ぎてしまいました。もしよろしければ、失礼して私も頂いてよろしいですか」
「「どうぞどうぞ」」
セシリア・リープクネヒトは、待っていたかのように手際よく自身の分を用意して着席した。ホタルとレンゲが固唾をのんで見守っていると……。
箸をつける前に、目を閉じて瞑想を始めた。
「あの……何をしているの?」
見かねてホタルが問いかけると、目を開けたセシリア・リープクネヒトは、何を当たり前のことをと言わんばかりの顔で答える。
「ラーメンを味わうため、五感を極限まで研ぎ澄ますのです。さあ、ご一緒に」
「そういうボケはもういいから、食べ方を教えるんですの!」
ついにレンゲが切れた。
「……まず、ヤサイの山を崩さないよう裾野を縦方向に少しだけ食します。鉱山に穴を掘るように。目的は下に眠っている麺です」
いよいよ、滅びた文明の技術がセシリア・リープクネヒトの手で現在に甦る。
ホタルとレンゲは、見よう見まねで箸を動かした。
「できた穴から麺をすくい、ヤサイの上にのせていきます。麺とヤサイを逆転させるのです」
「「おお……!」」
「これは『ラーメン二郎』を食す上での基本中の基本です。ヤサイを汁に浸して味をつけるとともに、熱い麺を冷まして食べ易くし、のびることも防ぐ。先人の知恵ですね」
「さすが先人! ……あれ、だったら最初から野菜と麺を逆にして出せばいいんじゃ」
「さあ、本格的に頂きましょう!」
ホタルの素朴な疑問を無視して、セシリア・リープクネヒトが麺を一気にすする。ホタルとレンゲを凌駕する速さでどんぶりの中身をみるみる減らし、
「はああぁぁぁあん!」
感極まったようだった。
「ああ、この脂ぎった濃厚なお汁、こしのある極太麺、厚切りだけどふわふわのチャーシュー、しゃきしゃきと瑞々しいモヤシ、そして全ての食材を鮮やかに引き立たせるニンニク! まさにこの瞬間こそラーメン!」
ひとしきりシャウトすると、端整な顔をどんぶりに戻してラストスパートに入る。こっちはまだ二人とも8割近く残っているというのに。
「作った人が一番幸せそうで何よりですの」
「そうね……」
「それにしてもこれ、量が多過ぎなんですの」
「ほんとよね……」
「これでもっと甘ければ余裕で完食できるんですけど」
「そう、もっと甘ければ……って違うわぁ!」
ここにも猛者がいたのをホタルは忘れていた。
幾度となく押し寄せる満腹感を乗り越え半ば以上気合いで完食すると、セシリア・リープクネヒトは初めてで完食できる者はそうはおりませんと嬉しそうに二人を讃えてくれた。なら出す量を減らしなさいよとホタルは心中で呟く。
「失われた世界の書物によれば、『ラーメン二郎』を愛する者達のことを『ジロリアン』と呼んだそうでございます。これでお二方も立派な『ジロリアン』です」
よくわからない称号まで授けてもらえた。
「身体からニンニクの臭いが抜けないわぁ……そういえば、私達人形が食べたものってどこへ行くの、レンゲ?」
「それは考えちゃいけないお約束ですの」
食事を終え、二人と一人は別れを告げる。セシリア・リープクネヒトは再び荷車をひいてラーメンを売る旅を続けるそうで、ホタルとレンゲはといえば、そもそもの目的である蜂蜜の収集に向かわないといけない。
「ありがとう。お腹いっぱいになったわ」
「こちらこそ。助けて頂いたのにラーメンでしかお礼ができず……しばらくはこの地域で商いをしておりますから、またいつでもいらして下さい。お二方は無料にいたしますよ」
「あはは……気が向いたらね」
ホタルが微妙な笑い方をしていると、さすらいのラーメン屋は不意に空を見上げた。
空は雲に覆われていて、雲以外に何も見えない。そこにまるで何かを見出しているかのように、セシリア・リープクネヒトは目を細める。
「まこと、楽しいひとときでした」
別れ際の彼女の微笑みは、いつまでも印象に残った。
「ごめんなさい、勝手なことばかりしてしまって」
二人になってから、ホタルはレンゲに詫びた。結果的に相手が敵対的ではなかったとはいえ、危険なことをしたという自覚はあった。しかもレンゲを巻き込んでしまった。今日は無理に頼んで、初めて仲間として一緒に外へ出たのに。
「全くですの。ひやひやしたんですの」
レンゲはふくれっ面をして、それから肩をすくめる。
「まあ、レンゲも楽しかったんですの。あのセシリア・リープクネヒトって面白い奴ですの。料理のセンスはいまいちですけど」
「それはレンゲも同じじゃ……」
「何か言ったですの?」
「い、いえ別に」
ホタルがあたふたすると、怒った顔をしていたレンゲはくすくすと笑った。
「それにしても不思議ですの。ホタルと出会ってまだ少ししか経っていないのに、変わったことがこんなに沢山あって。初めて仲間ができて、初めて別の人形とお喋りしたんですの」
「レンゲ……?」
レンゲはのびをすると、ホタルを追い越して先を歩く。
「ホタルと出会うまでは、自分以外にこの世界にいる人形のことなんて、考えたこともなかった。いいえ、世界のことでさえ深く考えたことはなかったですの。いかに安全に身を隠して、いかに効率よくモンスターを狩って日々の糧を得るか。正直ソロでは危険なことも増えていたけど、それ以上に変化が怖かったのかもしれない。レンゲは他に生き方なんて知らなかったから。ホタルがいなかったら、さっきだってレンゲは逃げていたんですの。そうしたらあの面白い人形とも知り合えなかったし、あの変てこなラーメンも食べられなかった。マントを羽織って廃墟を歩いてる人影はみんな幽霊か何かで、この世界でレンゲを取り巻くのは敵ばかりだって思い込んだままだったんですの。ホタルのおかげで、目に見える世界が少しだけ明るくなったような気がするんですの」
レンゲは立ち止まって、ホタルを振り返る。空は相変わらず雲で覆われているはずなのに、その時のレンゲの周囲は本当に明るくて、まるでそこだけ日がさしているように思えた。
「臆病であることは、この世界で生き残るのに必要なことだと今でも思っているんですの。でも、次からは変化に対して、もう少し勇気を出してみるんですの。……ありがとう、ホタル。レンゲに希望をくれて」
レンゲは謙虚過ぎるとホタルは思った。臆病さは、慎重さともいえる。この世界で長い間ソロで戦ってきたレンゲがリスクを避けようとするのは当然だし、さっきのはホタルが無鉄砲だっただけだ。レンゲみたいにきちんと物事を考えたわけじゃない。そう口にしかけて、ホタルはやめた。
希望。レンゲがもし自分と出会ってから経験した新しい出来事に希望を見出してくれたのなら、水を差すべきではないだろう。ただ、これだけは言っておかねば。
「私にあんなことができたのは、いざとなったらレンゲが守ってくれるって信じてたからよ。だから、私の方こそ、ありがとう」
「な、なっ」
レンゲは、わかり易過ぎるくらい頬を赤く染めて再び背を向けた。
「だいぶ時間をロスしたんですの。さあ、ハチの巣へ出発ですの!」
ホタルは微笑んでその後に続く。私だってそうなのだ。この子と出会えて、仲間になれて、本当に良かった。
二体のDOLL……Diversified Optimal Learning Laborが瓦礫の向こうに消えるまで見届けてから、セシリア・リープクネヒトは荷車をひき始めた。しばらくしたところで立ち止まる。廃ビルから軽々と飛び降り、こちらに駆けてくる小柄な人影が見えた。
「おーい、こっちから迎えに来たぜセシリア、じゃなかったリープクネヒト大佐!」
小麦色の肌、栗色の髪をポニーテールにし、目がくりくり動く元気そうな少女のフィギュアだった。
「二人の時はナカノ学校時代と同じセシリアで構いません、ディータ」
セシリアは、横に並んだ少女を愛おしげにそう呼んだ。
「こたびは遠方からよく来てくれました。南方戦線の指揮官は転属を許してくれたのですね」
ディータと呼ばれた少女は、白い八重歯を見せて朗らかに笑う。
「んなもん関係ねえよ。あたしはセシリアの頼みなら、地の果てだって駆け付けるぜ。そうそう、良いニュースと悪いニュースがあるんだけどよ」
「良いニュースからお願いします」
ディータが手伝って、話をしながら二人で荷車をひく。
「久しぶりに歌手らしいことをやらせて貰おうと思ってな。慰問ライブ、何度も申請してやっと司令部の許可が下りたぜ。この作戦が終わったらセシリアも一緒にやらねえか? 久しぶりにデュエットしようぜ!」
「まあ、それはまこと良き考えですね!」
セシリアは一瞬顔を輝かせて、こほんと咳ばらいをした。
「して、悪いニュースは?」
ディータが途端に苦い顔になる。
「中央の不拡大方針を押し切って、一部の部隊が行動を始めた。先鋒はあの第72師団だ。例の雛人形の壊滅がシザーマンの仕業だと嗅ぎ付けたらしい。このままじゃまた、あの貧乳女に手柄を横取りされるぞ」
ディータの言葉の最後の部分に、セシリアは荷車をひく足を止めた。ディータに向かい合う。
「ディータ。今の立場がどうであろうと、仲間のことをそのように言うのは感心しませんよ」
「セシリア……すまねえ」
セシリアの静かな気迫にディータはしゅんとなり、それでも納得がいかないように首を振った。
「……で、でもよ、セシリアが大佐止まりでこんな辺境にいるのは、あたしには納得いかねえぞ! あたし達は戦場でどんだけ死にもの狂いで戦っても、諜報畑だってだけで差別される。あたしは頭悪いから仕方ねえけど、セシリアは本当なら今頃は将官クラスのはずなんだぜ。なのに、中央はっ」
セシリアは、憤るディータをそっと胸に抱き寄せた。
「私を想ってくれる気持ちは嬉しいですが、心を落ち着けなさい。戦いは一期一会、静かな気持ちで臨むものです」
声を和らげてそう諭すと、セシリアの胸の中でディータがこくんと頷くのがわかった。
ディータの頭を撫でながら、セシリアは空を仰ぐ。彼女の癖だった。
「……戦争は惨い。純粋な心が蝕まれ、かけがえのない仲間達の絆までひび割れていきます。こんな狂った世は早く終わらせて、また昔のように皆で……」
セシリアはそう言いかけて、身体に違和感を覚え視線を下ろす。
ディータが、セシリアの胸の間に深々と顔を埋めていた。
「へへっ、セシリアのおっぱい相変わらずでかいなあ……」
「ディータ。どうやら貴女は、ラーメン二郎で心を清める必要があるようですね。どんぶりと向き合うことで、己と向き合うのです」
セシリアは笑顔をひきつらせてディータを胸から引き離し、手早く屋台の準備に取り掛かる。
「じ、二郎? おいおいあたしは江戸っ子だぜ、麺はかけそばのネギ抜きって決めてんだ」
「大豚ダブルを食べたい? わかりました」
「どう聞き間違えたらそうなるんだ……」
「上官命令です、ディータ・イル・マヌーク少佐。ニンニク入れますか?」
「こんな時だけ階級持ちだすなんて卑怯だぞ!」
ディータの抗議を聞き流して豚肉の代用のモンスター肉を書物を元に再現した隠し味の特製醤油で漬けたチャーシューを刻みながら、セシリアは先刻あのホタルというDOLLが、セシリアと出会えたことは希望だと言ったのを思い出していた。
人の世が滅び、代わりに異形の怪物と、魂を宿された人形が現れて数百年。
黒い雨と砂塵は、辛うじて残った文明の残滓を、容赦なく傷付け、風化させ、壊していく。
新たな時代の担い手になれたかもしれない人形は、しかし自らの手では新たに何も生み出せないまま、不毛な争いに明け暮れる。
この地獄のような世界に、希望などあるのだろうか?
「あのさあセシリア、せめてトッピングは少なめで頼むぜ……」
「ヤサイニンニクアブラカラメ全部マシマシ、チョモランマ、ですよね? わかっていますよ」
「おいこらー!」
セシリアは途中で考えるのを止め、愛する友のためのラーメン作りに集中した。
目覚めよ、音。大気を振るわせ、我が力を届けよ。
垂直に捧げた弓に念じて、そっと弦にあてる。静かに、祈るように目を閉じて。
「第二十四奏、クワジ・プレスト」
レンゲは弓を走らせ、『音』を奏でた。
廃墟の中の地下へと続く階段、その行く手を阻む壁が、微かな振動を始める。
振動は徐々に大きくなっていく。壁は軋んでやがて亀裂が走り、最後には轟音を上げて崩れた。壁の前で見張りをしていたハチの一群が、慌てて回避しようとするが遅い。もうもうと土煙が上がる中、壁の崩落に巻き込まれたハチ達のライフが全損するのが見えた。
「ふふっ、目に物見せてやりましたですの! 今日はレンゲとホタルのパーティー結成記念、派手にいくんですの!」
どやあ! 共鳴現象を起こす大技が華麗にきまりましたですの! 気のせいかあのラーメンのおかげで威力がアップしてる気がするんですの。これでホタルもレンゲに憧れるですの?
振り返るとホタルが、憧れるというよりは微妙そうな顔をしていた。
「凄いわねレンゲ……ところで、さっきの『目覚めよ音、大気を震わせ何とか』って……呪文……?」
しまったあああ! 頭の中の設定をうっかり声に出してたですの、痛い、痛すぎるんですの……。
「お、おほん! 感心してばかりじゃ駄目ですの、見せ物じゃないんですの。危ないことしてるって意識は、忘れないで欲しいんですの」
無理やりごまかしたところで、運良く地下から複数の羽音が聴こえてきた。今壊したのはこのダンジョン、ハチの巣の外壁だ。そこを壊して前哨を何匹か殺せば、社会性の昆虫から変異したハチのモンスターは仲間同士の警報を出してたちまち大量に群がってくる。その習性を、レンゲは敢えて利用したのだ。
「ピッツィカート!」
弓ではなく指で弦を弾き、小刻みの音を次々とハチにぶつけていく。威力は先ほどの壁を崩した技とは比べ物にならないほど弱く一撃で殺すことはできないが、ハチ程度の低レベルモンスターなら平衡感覚を奪い気絶させることができる。
「さあホタル、剣で止めを! ちょっとズルいけどこうしてれば経験値が少しずつ稼げるんですの。後、ドロップアイテムの回収も忘れないで」
レンゲの指示でホタルが進み出るが、落下してぴくぴくと痙攣しているハチの前で躊躇いの表情をみせた。モンスターとはいえ、無抵抗の状態を攻撃するのは気が引けるのかもしれない。先ほども初対面の人形を助けた。優しい、というだけではない。矜持? レンゲは、ホタル本人さえ知らない彼女の内面を垣間見た気がした。
しかし、ここは情けは無用だ。
「ホタル、早く! こいつらを倒さないと蜂蜜は手に入らないんですの!」
ホタルは頷くと、逡巡を振り切るように一気に剣でハチの胴体を突く。ハチが耳障りな奇声を上げて息絶え、亡骸からテラコッタの壺が転がり出た。この壺の中身が蜂蜜だ。
「壺……? というか花も咲いてない世界で、ハチはどこから蜜を集めてるの?」
蜂蜜の壺を拾って袋に入れながら、ホタルが納得のいかない様子で呟いている。
「それは考えちゃいけないお約束ですの。それより、ホタルが覚えなくちゃいけないことは他に沢山あるんですの。……新手ですの!」
階段の奥の暗闇から、再び鈍い羽音。こちらをターゲットしたハチ達の複眼が怒りに燃える赤に染まっている。
「ヴィヴァーチェ!」
先行するレンゲが放った見えない超音波の衝撃が飛来するハチ達を地面や壁に叩きつけ、そこに後からホタルが剣を振り下ろして止めを刺していく。数をこなすことで剣の重さには次第に慣れてきたようだが、まだぎこちない動きだ。
単に蜂蜜集めとホタルの経験値稼ぎが目的なら今のローテーションで問題ないが、それではホタルのプレイヤースキルが上達しない。レンゲはわざと数匹を撃ち漏らし、無傷の状態でホタルへと向かわせた。
ハチ達はレンゲをすり抜けて、赤い光芒のようにホタルめがけて突進する。止めを刺しているホタルの方が、ハチ達の
「レンゲ! ハチがこっちに……」
反射的に身をすくませるホタルに、レンゲは怒鳴った。
「立ち止まっちゃ駄目ですの!」
先頭のハチが黄色と黒の装甲に覆われた腹をかしゃかしゃと折り曲げ、ホバリングした状態でホタルに尻を向けるポーズをとる。尻に隠されていた、鋭利な針が鈍く光る。ハチはそのまま、一直線にホタルに――
「ステップ回避ですの! 獲物が硬直したところで斬る!」
レンゲが檄を飛ばす。ホタルが横っ飛びで避ける。刺突の寸前で敵をロストし、滞空したまま静止するハチに、ホタルの水平斬りがきまった。両断されたハチと一緒にドロップした蜂蜜の壺が階段に転がるが、ホタルはそれを回収することも忘れ、肩で荒く息をしている。
ホタルの意識はまだ、倒したハチの死骸に向けられたままのようだ。そこへ上から第二のハチが、針を突き立てようと急降下する。ホタルは危ういところで今度は後ろにジャンプして回避。直後、激しい突きを繰り出す。だが、階段の途中という足場の悪さで、ホタルの剣はぶれ、直撃はしなかった。ハチの羽の片方を付け根から吹き飛ばしただけだ。
「このっ! ……もう一度!」
ホタルはぎりっと歯を鳴らして、不安定な姿勢のままで同じ刺突を繰り返すが、片羽を落としたハチは勢いで斜めに旋回してぎりぎりで回避した。剣は空を切り、ホタルは大きくよろめく。
直線的な動きに終始する刺突攻撃は、外してから立ち直るまでの隙が致命的だ。
ホタルは、三匹目のハチがいつの間にか自分の背後に回り込んでいることに、刺されるまでとうとう気付かなかった。
「痛っ! え、どうして……」
ホタルの背中がびくんと跳ねる。痛みと驚きの入り混じった顔で、まず目の前のハチを凝視し、次に周囲をきょろきょろ見回して、ようやく真後ろに肉迫したハチに気付く。
緊張で視野が狭まったのが敗因、でも初めてにしては上出来だ。特にさっきの水平斬りは見事だった。とても、今日初めて剣を手にしたとは思えないくらい。
ホタルががくんと片膝をつく。ハチの毒が回ったのだ。レンゲはヴァイオリンの弦に弓を走らせた。超音波の刃がホタルを挟み撃ちにしていたハチ二匹を切り裂き、一瞬でライフをゼロにする。
「抜き打ちで悪いけど、試しに何匹かそっちに回してみたんですの。どうですの、初めての戦闘は」
レンゲは回復用の干した薬草を手渡そうと近付いて、ホタルの悶絶している姿を見て硬まった。
「……ごめんなさい、やっぱり痛かったですの?」
「いいえ、なんのこれしき……つつ」
ホタルが薬草を口に入れるのを確認すると、レンゲは溜め息をつく。
「最初の反応が遅れたのは大目に見るとしても、複数の敵がいる状況で隙だらけの突き技を繰り返したのと、目の前の敵に気をとられて
「面目ないわ……」
肩を落とすホタルに、レンゲは微笑みかけた。厳しめに言ったのは、今後に期待できる戦いぶりだったからだ。
「とはいえ、貴女の剣筋はとても鮮やかだったんですの」
ホタルがきょとんとする。やはり、無意識の動きだったのか。あの時、ホタルは重い剣を力任せに振っていたのではない。脚と腰の自然な動きで、身体の重心を巧みに移動させスイングしていた。咄嗟に無意識でそんな動きができるということは、記憶をなくす前のホタルは。
新たにハチの一群が現れ、レンゲは我に返った。
回復を終えたホタルを今度は前に立たせて、自分はバックアップに回る。
「後ろから援護するから、思う存分に剣を振るうんですの」
「ちょっとレンゲ!」
抗議しかけたホタルのところに、早速ハチが飛び込んできた。
ホタルはもう、立ちすくんだりはしなかった。腰をすっと落とし、わずかな溜めの後鋭い呼気とともに斜め斬りを放つ。剣尖は空中に円弧を描き、ハチの針を胴体ごと粉砕する。
そこで立ち止まりかけたホタルは、はっとしてジャンプする。瞬間、別のハチの針がホタルのいた場所を抜けていく。
「視野を広げるには思考に余裕をもつこと、そのためにはモンスターの法則を把握することですの」
超音波の範囲攻撃でホタル前方のハチ三匹のライフをまとめて削りながら、レンゲは助言する。
「法則?」
「このハチ達に限らず、全てのモンスターは一定のアルゴリズムに従って行動しているんですの」
ホタルに回避され、空中で戸惑ったように
「モンスターが貴女をターゲットして、攻撃してくる一連の流れを身体で覚えなさい。追跡から加速、攻撃に移るタイミングは? リーチの長さは? プレモーションの仕草とかかる時間は? こちらが攻撃を回避した場合の次の動きは? モンスターのレベルが上がるにつれパターンは複雑化して威力やスピードが増すけど、基本は同じ。このハチみたいな雑魚モンスターなら、一撃も食らわずに倒せて当たり前ですの」
いつしか二人の足元には、数えきれないほどの蜂蜜の壺が転がっている。
「けれど雑魚は数が多くて倒しても倒しても湧き続けるから、長時間戦っていると集中力が保てずに凡ミスによる被弾が増え、ダメージが蓄積されていく。だから回復アイテムは必須、安全マージンを十分にとって欲をかかずに撤退すること。これ鉄則ですの」
「レンゲは、モンスターを狩るのが好きなの?」
一通りハチを片付けた後、ホタルは振り返ってそう訊いてきた。蜂蜜を拾って袋に詰めていたレンゲは、少し考えて首を横に振った。
「レンゲのモットーは楽して効率よく、ですの」
ホタルも手伝ってくれる。二人で蜂蜜を拾う。
「効率よく狩りを終わらせれば、それだけ早く安全な我が家に帰れるんですの。戦闘じゃない趣味のヴァイオリン演奏もできる。前は自分の演奏を独りで聴くだけだったけど……今はホタルがいる」
「レンゲ……」
「でも! 今日はホタルと一緒にする初めての狩りだから、いつもより張り切っちゃうんですの。この勢いでボスモンスターの女王バチを倒して、秘蔵のローヤルゼリーをゲットですの!」
レンゲが拳を突き上げると、ホタルは蜂蜜の壺を取り落としそうになった。
「えっ、ボスモンスターを?」
「大丈夫。ボスといっても女王バチはライフが無駄に多いだけで戦闘能力はほぼ皆無ですの。護衛のハチの数が多いし面倒だから普段ならここで帰るとこですけど、ホタルの練習には丁度いいですの。ああ、それと念のためにこれを持っておくんですの」
レンゲは小物入れから一本の薬瓶を取り出し、ホタルの手に握らせた。
「これは……!」
ホタルを助けた夜、廃病院で手に入れるはずだったメディカルセットから持ち帰った唯一のアイテム、希少性の高い即効性の回復アイテムだ。気が付いたホタルは、驚いて返そうとする。
「駄目よレンゲ、それはレンゲが頑張って手に入れた大切なものじゃない、受け取れないわ」
「雑魚のハチに刺されて泣きべそかいてたくせに、強がるんじゃないですの」
言い返そうとするホタルに強引に薬瓶を押し付けると、レンゲは駈け出した。
「ボス部屋がどんな感じか、レンゲが先に偵察しに行くんですの! ホタルは後からゆっくりついて来て欲しいんですの!」
ホタルが慌てて追いかけてくるが、瓦礫が散らばる狭い階段だ。廃墟慣れした自分にはそう簡単には追いつけない。
仲間ができた。
その事実に改めて嬉しさがこみ上げてきて、はしゃいでいる自分が気恥ずかしくて、少し走りたかった。
身体が軽い。こんな幸せな気持ちは初めてだ。
ソロプレイヤーなんて無理して格好つけてきたけど、怖くても辛くても、誰にも相談できなかった。
唯一の心の癒しは、家に帰ってから独りで弾くヴァイオリンだった。それだって、自分以外に誰もいなければ、上手でも下手でも、美しい音でもただの耳障りなノイズでも関係ない。孤独な趣味。
でも今は、ホタルがいる。
この先、世界で生きていくのにどんな危険がついてまわったって。
きっと大丈夫。
だってレンゲはもう独りぼっちじゃない。一緒に戦い、笑いあえる仲間がいるんだから。
階段が終わり、通路になる。ハチの姿はない。通路の先から光が射している。
レンゲは訝しみながら、光の方へ向かう。そこは、地下の大きな広間だった。遮蔽物に身を隠して、広間の中を覗き見る。
広間の天井が抜けて、はるか高いところに空が見えて、光はそこから降り注いでいる。
「おかしいですの、前に地上から調べたときは吹き抜け構造なんかじゃなかったのに……これは」
視線を下ろしたレンゲは、その光景に息を呑んだ。
静寂の中、一面にハチの死骸と蜂蜜の壺が散乱している。
さらに先を見ると、広間の中央にひと際巨大なハチが横たわっていた。あれは女王バチ。つまりここはボス部屋だったのだ。女王バチはいくつかのブロックに切断され、体液を滴らせている。まだ新しい、綺麗な切断面だ。一体誰が……。
レンゲがそこまで考えた時だった。女王バチの死骸の後ろから、無音のまま人影が立ち上がった。気配など感じさせず、まるで今その場に現れたかのように。
先客。ここへ先に来て狩りをしていた? でもここまで来る階段には雑魚のハチが大勢いたし、先に誰かが通った形跡はなかった。……そうか、この天井の穴から。
目の前の疑問に答えを出したレンゲは、納得して一つ頷いた。
たった一人でボス部屋を攻略した先客の姿を観察する。
濃紺の服を身に纏い、帽子をかぶった人形。
人形は自らの手で屠ったモンスター達の亡骸を、静かに見下ろしていた。
その眼差しは、とても穏やかだ。
そして人形は、この距離からだとわかり辛いが、恐らくDOLLだった。レンゲや、ホタルと同じ。
これまでのレンゲなら、隠れてやり過ごしただろう。
しかし。
先ほどセシリア・リープクネヒトという人形に出会って、話してみたらとても面白い奴で、楽しい時間を過ごせたことを思い出す。世界があんなにも優しいなんて、自分は知らなかった。ホタルのおかげだ。
勇気を出そう。レンゲはそう決意した。
あの濃紺の服の人形とも、仲良くなれるかもしれない。ホタルが知りたがっているこの世界のことも、何かわかるかもしれない。
ボスモンスターとローヤルゼリーはとられちゃったけど、代わりにあの人形に話しかけて、後から来るホタルを驚かせよう。きっと喜んでくれる。ホタルが喜べば、レンゲも嬉しい。
レンゲは、物陰から這い出した。ホタルがしていたように、濃紺の人形に向かって両手を振って敵意がないことを示す。
「おーい、ですのー」
濃紺の人形が、こちらを振り返る。人形は、無表情のまま帽子の鍔に軽く手をかけた。
挨拶のポーズですの?
その瞬間。レンゲの視界の中で、帽子は残像になって消えた。
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