第5話『家系ラーメンを食べに行こう』
勝負の約束を取り付けた後、ドミニカはガレージを去っていった。普段はロシアにて暮らしている彼女も、夏季休業中は日本の母親の実家にずっと滞在する予定らしい。
夕方になり“夕焼け小焼け”のメロディを聞いた俺はひとまず瑠姫を帰した後、夕飯を食べに鉄也と二人でソラマチ周辺にある行きつけのラーメン屋を目指して歩いていた。目の前に聳え立つ高さ634メートルもの電波塔……つまり東京スカイツリーの方向を目指していれば、目的地の飲食店にはどんなに度を越した方向音痴でさえもたどり着く事ができる。そういう意味で、スカイツリーという存在は非常に便利であるといえた。
(まてよ、母親の実家ってことは、つまりドクの実家ってことか……?)
道中、ふとそんな疑問が頭をよぎった。
ドミニカは自らをロシア人の父と日本人の母の間に生まれたハーフだと言っていた。つまり、彼女にとってドクは母方の祖父ということになる。ついでに言うと、ドクの家は俺の家からそう遠くない距離にある。詰まる所、ご近所さんというやつだ。
(だったら何でドミニカは、母親の旧姓である“我島”を名乗ったんだ?)
ロシア人の父が婿入りでもしていない限りは、普通ならドミニカのファミリーネームはロシア人の父親と同一のものになる筈である。もしかしたら、両親が離婚でもしてしまっているのだろうか。
(……複雑なご家庭ってことかな)
人様の家庭の事情というデリケートな問題に、他人である俺が首を突っ込むというのも野暮な話である。もし次に彼女に会う機会があったとしても、この事にはなるべく触れないようにしよう。
そのようにして、俺の脳内会議が無事閉廷をした頃、ちょうど俺と鉄也は行きつけのラーメン屋“
東京スカイツリー駅のふもとに店を構えるそこは、豚骨醤油ベースのスープが特徴の、所謂“横浜家系”と呼ばれる系統のラーメン屋だ。
「いらっしゃいアル!」
店のドアをくぐると、すぐにいいかげんな中国語みたいなのが飛んできた。声の主のほうに目をやると、青いチャイナドレスに身を包んだ小柄な少女がこちらに歩み寄ってきていた。
彼女は
「おおっ、ムカイサンにコガサン! また来てくれたネ! 席はテーブル席でヨロシ?」
接客する海月の表情は、もはや胡散臭さを感じさせるほどに完璧な笑顔だった。まさにこの店の
「いや、カウンター席で構わないぜ。そろそろ客足も増える時間帯だろうしな」
「
店の奥にそう叫んだ後、海月は身を翻し、空いているカウンター側の二席まで案内してくれた。シニヨンキャップで包まれた二つのお団子が左右にくっ付いた頭が可愛らしく揺れる。
奥のカウンター席に座り、海月が運んできたお冷を受け取ると、鉄也と俺はメニュー表も見ずに厨房にいる店主に向かって注文をする。
「おやっさん! 濃いめ固めのほうれん草増しね! それから大ライスも!」
「俺はライスに煮卵もプラスしてもらうぜ! スープは濃いめに脂多め、麺は漢らしくハリガネでな!」
「バッキャロー。いつも
常連とはいえ、客である俺に悪態をつきながらも淡々と生麺を茹で始めたのは、ここ“海堂家”の店主、
こんなタフそうな男が本当に華奢な体つきの海月の父親なのかと、未だに疑問に思う。もっとも、本当にそんな軽はずみな発言をしてしまえば、その丸太のように太い腕でぶん殴られかねないが。
ちなみに、なぜこの店が店主である“海堂”の名を銘打たれているのかにはちゃんと理由があった。というのも、元々この場所には家系ラーメンのチェーン店があり、その頃から源五郎が店長として店を切り盛りしていたのだ。だが、どうやら『音楽性の違い』ならぬ『スープの趣向の違い』という、まるでバンドが解散する時のような理由でいざこざを起こし、その結果“海堂家”として独立するに至ったというわけだ。
厨房で戦う人間達の世界は、自炊もろくに出来ない俺からすれば理解し難いものであったが、まあ独立後の味の方が個人的には好きだったのもあり、客としては万々歳である。
「へい、
しばらくすると、厨房の源五郎がまるで呪文めいた言葉を唱えながら、湯気だったラーメンの丼を差し出してきた。
「それから
「店長……っ!」
客の無茶なオーダーに対して文句を言いつつもちゃんと応えてくれる源五郎に、俺は思わず手合せで喜んでしまった。この店主、なかなかのツンデレである。これでビジュアルが美少女だったら完璧だったのに。
「じゃ、伸びないうちに」
「いただきますか」
そう言って、俺と鉄也は出来立てほやほやのラーメンに箸とレンゲをスープの海に落とし込む。
俗に家系ラーメンと呼称されるこのラーメンは、濃厚な豚骨醤油のスープに太麺、そしてほうれん草、焼豚、海苔が標準的にトッピングされている。鉄也はこれに加えてほうれん草を増量し、俺は煮卵を足したというわけだ。また、先ほど俺と鉄也がそうしていたように、スープの濃さや脂の多さ、麺の茹で時間などを、客の好みによって調節できるのも見所の一つだ。
まずはスープを拝借。“濃いめ”とオーダーしただけあって、スープはもはや水というよりは泥のような濃厚さだった。スープを飲めば飲むほど、口の中の水分が無くなってゆく。だが、それがいい。
豚骨や鶏ガラの出汁からなる臭みのあるスープが味覚神経を刺激し、食欲を増幅させる。人を選ぶ味ではあるが、一度クセになればヤミツキになってしまう。
続いて麺を口へと運ぶ。ハリガネの固さに調節された太くコシのある麺は、濃厚なスープとよく絡む。麺がスープを、スープが麺を引き立てるのだ。
さて、こんなにも味の濃いものを食べていると、そろそろ口の中に塩分が蓄積されてくる頃だ。そこで、丼の隣にあるライスの出番である。
何も乗っていない白米だからこそ、その素朴な味が、緩急における“緩”を生み出し、食事にリズムをもたらしてくれるのだ。本来なら食卓の主役である炭水化物をおかずにして、別の炭水化物を食べるというのは少し背徳的でもあるが、その後ろめたさがかえって旨さに拍車をかけている。まさしく禁忌の味なのだ。
また、ライスにはこんな食べ方も存在する。俺は海苔を箸でつまむと、それをスープの海に思いっきり沈ませる。スープをふんだんに含んだ海苔を茶碗に入ったライスの上に乗せると、そのまま白米を海苔で包み込んで食べるのだ。海苔で巻かれたライスは、一手間加えただけあってやはり格別だ。これも濃厚なスープのちょっとした応用よ。
「さて、俺はここでにんにくを
「良い判断だ、鉄也クン。俺は更に
カウンターに並べられてある容器に手を伸ばす。中に入っている調味料を使うことで、ラーメンの味を自在に変えることができ、最後まで飽きずに食べることができるのだ。
おろしにんにくと豆板醤を溶かしたスープが、次第に燃えるような赤色へと変化していく。新たな味を獲得したラーメンを目の前にし、俺の食は三倍のスピードで進む。余談だが、“赤”と“三倍”というワードを聞いて、どちらを想像したかによって世代が分かれると思うんだ。
間も無く、俺と鉄也はスープ一滴も残さずに完食してしまった。
俺はいつもこのタイミングで、海月から受け取ったお冷を一気に飲み干す。塩分の過剰摂取により乾ききった喉を、冷水が優しく澄み渡ってゆくのだ。
最後にテーブルの上に置いてある白いペーパーナプキンで口を拭いて、食事は終了だ。立つ鳥跡を濁さず。これぞ紳士の嗜みである。
「ご馳走様でしたっ」
すっかり満腹感に満たされた俺と鉄也は、会計を済ませるべく伝票を手に取ってレジへと向かった。ちょうど手の空いていた海月がレジまで駆けつけると、俺から伝票、そして海堂家スタンプカードを受け取る。
「いつも通り別会計でよろしいアルか?」
「うむ。一緒だと、どちらかのスタンプカードにしか押されないからな」
「さすがムカイサン! 策士アルネ!」
このカードは一食ごとに一つスタンプが押されていき、20個まで貯めれば何とラーメン一杯が無料でいただけてしまうのだ。この店の常連客ならば是非持っておきたい必須アイテムといえよう。
「そうそう、2人とも。今週の“下町レイディオ”は聴いてくれたアルか!?」
「下町レイディオ? それがどうかしたのか?」
俺が聞き返すと、海月も鉄也も何故か仰天した様子でこちらを見てきた。わけがわからない。
「ガレージで流してたんだから、お前も聞いてたろ!?」
「す、すまない。聞き流してた」
「うぅ。せっかくこの“海堂家”の特集回だったのにぃ……アル」
取って付けたような海月の語尾はとりあえず置いておくとして、どうやら今週の下町レイディオは海堂家にスポットを当てた回だったらしい。
「コガサンは聴いててくれたアルね! 海月も嬉しいアルヨ!」
「ヘヘッ。自慢じゃないが、下町レイディオは毎週欠かさずチェックしているからな」
「ちなみに、鉄也クン。どんな内容だったんだ?」
「……ええっと。……ゴメンナサイヨクキイテマセンデシタ」
やっぱり。鉄也が下町レイディオを聴いている理由の10割は、“ブックマーク・siorin”なるパーソナリティの綺麗な声を聴く為である。見たこともない人物を文字通り盲目的に崇拝している彼にとっては、もはやラジオの内容など二の次なのだろう。
「もう、コガサンまで薄情アル! 2人ともスタンプ押さないアルヨ!?」
「何ッ!? それは困るぜ、海月! 毎度このスタンプを押してもらうのがささやかな楽しみだというのに……ッ!」
「今度またちゃんと聴き直すからさっ。機嫌直してくれよ」
自分たちよりも頭一つ分は小さい女子高生に対して、二十歳目前の俺と鉄也が頭を下げる。端から見ればなんとも情けない光景に見えるかもしれないが、それだけ俺達も海月に対して心を許しているということだ。単に胃袋を掴まれているだけかもしれないが。
「上客2人にそう言われちゃあ仕方ないアルね……よし、スタンプ押してあげるヨ!」
「さすが海月ちゃん! 愛してる!」
「そういうのいいからはやく560円払えヨ」
「アッハイ」
会計を済ませて無事スタンプも押してもらい、俺と鉄也は海月に見送られながら出入り口のドアを潜った。店を入る頃にはまだ明るかった空も、今はすっかり陽が落ち、街灯が夏の生暖かい暗闇を仄かに照らしている。
「でもさぁ、本当にあんな勝負受けて大丈夫だったのか?」
ガレージへの帰路を歩く途中、鉄也が不満げに、そして自信なさげに言った。一度は条件を出して丸め込んだものの、やはり彼は俺の決定にまだどこか納得のいっていない様子だった。
「当然だぜ。漢に二言はないと言っているだろう」
「そうは言うけど、やっぱり相手が悪すぎるって。あっちはプロ中のプロだぜ? それも神に愛されたとしか思えない程の天才」
「鉄也クン。確かにドミニカは
2つ と聞き返してくる鉄也に、俺はビシッと天を指して告げる。
「1つ! 奴にはロマンがまるで足りとらん!」
「論破されたことまだ根に持ってるのかよ……」
「う、うるさいぜ! そして2つ目! それは“時間”だ!」
「じかん?」
うむ。と俺は首を縦に振る。
「学校が夏季休業中とはいえ、彼女は設計のプロだ。企業からの依頼に追われ、さぞ忙しいサマーバケーションを送っていることだろう。それに比べて俺たちは日本の暇な大学生、しかも夏休みだ! 何事も時間さえあれば何かと上手くいくものよ!」
「うーん。なんか色々な意味で既に完全敗北してる気もするけど……」
鉄也はボリュームのあるプチアフロをガシガシと搔くと、やがて心を決めたのか、表情が少し柔いだ。
「そうだよな。俺たちには時間があるもんな。何か、何でも出来る気がしてきた」
「その意気だ鉄也クン! 暇な大学生の底力、あの女に見せつけてやろうぜ!」
ワハハハハッ! と二人で肩を抱き合い、高笑いをあげる。それも、知らない人から見れば同性愛者か何かだと勘違いされかねないくらいに元気良く。
「……まずは設計から見直さないとな、今日は熱血徹夜するぞ。鉄也クン」
「クンはいらない。……徹夜かぁ」
無茶振りだったかもしれないが、鉄也がそれに反論することはなかった。
夏休み終了まで、あと35日。
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