第三夜 七つまでは神のうち

これもまた幼稚園の頃の話だ。

どの話とも違い、これだけは私が幽霊か妖怪かはわからないが、「見た」と確信しているものだ。もちろん傍から聞けば夢だったと言われるかもしれないし、大人になった今、私もそれは否定できない。でも子供の頃に幽霊または妖怪を見たことある?と聞かれたときは必ずこの話をしていた。


私は当時、塾に行っていた、その理由は落ち着きがなかったので、椅子に座ってじっとしていることを学ばせたかったかららしいが、おかげで低学年で習う漢字はだいたい読めたし、読めなくても漢字のつくりや前後の文章から意味を推察することもできた。その頃から本が大好きで、日本の昔話集215話という4,5センチの厚さの本を易々読んでのけた。


ある日、幼稚園から本をもらった。それは和洋の妖怪についての本で、小学生用で難しい漢字もある本だからお母さんと一緒に読むように、と言って渡された。見栄っ張りな私は幼稚園生でも一人で読めることが鼻高々で、よく一人で読んでいた。30ページもない小冊子で、ドラキュラや半魚人、ろくろ首、一つ目小僧などのリアルなイラストや由来、目撃情報などの詳細の説明が書いてあって、面白さ半分、怖いもの見たさ半分で読んでいた。その小冊子には神隠しについても細かい解説があった。子供が天狗や神様に異世界へ連れ去らわれてしまう話だ。その箇所だけ、本能的になんだか嫌な感じがした。


私はその頃、第一夜のときに引っ越した東京の社宅ではなく、埼玉県にある別の社宅に住んでいた。ここには6年ほど住んでいたので、水琴窟のとき、埼玉をディスっていない、と言ったのはこういうわけだ。その社宅の敷地はすごく広くて、4階建ての建物が2棟ずつ計4棟並び、公園が2つも敷地内にあった。位置関係としては、敷地の一辺から、1つ目の公園があって、A棟B棟が横並びにあり、2つ目の公園、横並びのC棟とD棟と続く。遊び場としては2つ目の公園がメインで、その理由は、私やそこに子連れで住む家族はC棟とD棟にまとまっており、その2つの棟のベランダから良く見えるからだ。それに定期的な草刈りや遊具の塗り替えなどよく手入れされていた。1つ目の公園は子供のいない家族が住むAB棟のベランダからしか見えない上に、草刈りが行われず、心なしか暗かったので、そこの公園で遊ぶ時は、親に許可を取るのが常だった。もっともわざわざ家に帰らずに、ベランダに向かって子供たちがそれぞれが大声で「おかーさーん!裏の公園に行ってきていーいー!?」と大合唱するので、ずいぶんうるさかったことだろう。


そして、その一つ目の公園、通称・裏の公園というのが、子供からするとなぜか異世界のように見えたのだ。大人は滅多に訪れず、とても静かで草木が多い茂り、日陰や死角がたくさんある。錆びた4人乗りブランコが時折、風でキイキイと鳴り、使われていない物置が斜めになって放置されていた。シジミチョウが何匹もきらきらと光を反射し、夏にはアゲハチョウがひらひらと舞い、草をかき分けて走れば、そこかしこからバッタやカマキリが宙を飛ぶ。少し変なところに隠れたら一生見つからないかのような錯覚に陥いり、天狗や神様に連れ去らわれるなら、入り口はここにあるんだろう、と思っていた。


ある夏の夕方、それは来た。

その日は、母に何かでひどく叱られ、自分の部屋から出ないように言い渡された。外はまた夕方だったが、晩御飯も風呂も終えて私はパジャマだった。

私は半べそをかきながら、開け放った窓からベランダに出て外を見ていた。逢魔が時の夕陽が2つ目の公園を挟んで向かいのAB棟の後ろへ沈んでいく。そこで、A棟の屋上にある給水タンクのところで変なものがうごめいているのに気が付いた。


「どこだ、どこだ。あの子はどこだ。探しているあの子はどこだ。」


かなり距離があるのにも関わらず、そのうごめいているものが何と言っているか聞こえた。私は怖くなったが、なぜか目が逸らせない。そしてきょろきょろしているそれと目が合った。


「いた、あの子だ。あの子がいた。」


それは、すーと滑るように一気に距離を詰め、私の目の前に現れた。


「迎えに来たよ、行こう、行こう。」


「い……いやだ、行かない!」


私は後ずさった。それは見た目に似合わず可愛い声をしていた。


「ううん、行くんだよ。」


すると、ベランダに干してあった、洗濯ものたちがくるりと一回転して、私の腕や足に巻き付き、背中を押した。お父さんのTシャツが私の顔の前にひらひらと飛んできて、そのTシャツに描いてあるテルテル坊主が、にたりと笑った。


「いや、だ!!いや、お母さ、んぐっ」


私は叫び声を上げたが、誰かの洗濯物の袖が私の口を塞いだ。


「さあ、行こう。行こう。大丈夫だよ、とってもいいところだから。」


その声と共に私はふわり、と浮くと洗濯物に引っ張られながら、ベランダを離れ、A棟の屋上を飛び越す。やはり、着いた先は裏の公園だった。夏なのに、虫の鳴き声一つせず、いつもは人の気配に驚き飛び出すバッタも出てこなかった。

それは斜めに置かれた物置の扉を開けると、それは嬉しそうにパタパタと跳ねた。子供たちで試したときは鍵がかかっていて開いたことはない扉だ。中は真っ暗だった。

私はもう二度と家に帰れないのだと思うと、涙が出た。

お母さん、ごめんなさい、大好きだよ。叱られた後、まだ謝っていないことを思い出し、心の中で何度も謝った。


すると、それは私の泣いている顔をしげしげと見た。そしてかぶりを振る。


「だめだった。君は行けない、残念。残念。とっても残念。」


それは、親切にも私をベランダまで送り届けてくれた。洗濯物も元通り、物干し竿に戻った。


「もう会えない、もう会えない。残念。」


そう言いながら、それは去っていき、私はよくわからないまま、ベランダに暫し突っ立っていた。それから急に恐怖がよみがえり、わんわん泣きながら、母のところに転がり込んだ。部屋にいなさいという言いつけを破った私に母は怒ったが、私は何度も何度も謝った。


それが何だったのか今でも形容しがたい。おじいさんのようでもあったし、黒い靄のようでもあったし、笠をかぶった子供のようでもあったし、一つになったり、二つやそれ以上に増えたり、定まらなかった。

それが、なぜ私を連れていけないと判断したのかもわからない。


もしかしたら、親に怒られても反省しないふてぶてしい子を探していたのかもしれない。

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