第6話 襷(たすき)

私、坂井舞香は…もう十余年前に小学校を卒業した身だ。

26歳はまだまだ若いと思っているが、小学生の時に考えていた20代後半とは「おばさん」だったし、とっくに結婚して子供がいると漠然と思っていた。それがまさか独身どころか、彼氏すらいないとは…いや、止めよう。ホラーだ、ホラーに戻ろう。今回は昔を思い出し、つい長くなってしまった。会話もなく読むのが大変かもしれないが、最後までお付き合いいただけると嬉しい。


そう、小学6年生のとき、私はグレていた。髪の毛を染めたり、地元のレディースに加わったり、そういうグレ方ではないが、気に入らない教師に盾付き、授業をさぼったりしていた。私の名誉のために言わせてもらうが、私にとってそれは不可抗力だったのだ。

私はクラスで上手くやれておらず、俗にいういじめに合っていた。授業で私が当てられ教科書を音読すれば、クスクスと笑われ、上履きは泥で汚され、ばい菌扱いを受け、私のよそった給食は汚れているらしく誰も手をつけないときがあった。

そして、家でも上手くいっていなかった。学校で上手くいっていない私を案じて、私立の中学を受験する話が持ち上がった。ありがたいことに父親が勉強を見てくれたのだが、分からない問題があるとすぐに殴られるほどのスパルタだったのだ。学校の成績は悪くなかったが、中学受験の問題が誰にも教えられずに解けるほど頭は良くない、毎日課題が与えられ、それが終わらなければ寝かせてもらえず、過去問を解くたびに私の体は痣だらけになった。

学校でも家でも逃げ場が無くなった私は荒れた。溜まった不満を、私を咎める担任の先生にぶつけ、週に1度ほどの頻度で授業を1,2時間さぼっていた。授業中の静まり返った校舎を教師に見つからぬようこっそりと徘徊するのはスリルもあり、なぜだかとても面白かった。そこで見つけたのが、用途不明の小さな小部屋だった。


その用途不明の小部屋は、階段を登りきったところにある踊り場、屋上の出入り口に面しているスペースの壁に、クリーム色で塗られた150㎝×80㎝くらいの小さな鉄製の扉があり、それを開けるとあった。中はむき出しのコンクリートで1畳ほどの広さだった。頭上には蛍光灯が一つあり、電気も付いた。ただし、窓などはなく、ドアを閉めると少し息苦しさを覚えた。そして、その中には雑多なものが収められていた、小さな黒板、山積みになった古いプリントと本の山、10年ほど前に発行された少女漫画雑誌まであった。多少の息苦しさはあれど、内側から鍵もかかるその小部屋を私はいたく気に入り、授業をさぼるときにはそこに籠るようになった。家に帰りたくなくて放課後にそこに籠っていたこともあるが、誰かがこの小部屋を訪れたことはなかったし、私がその部屋に置きっぱなしにしておいた私物が動いた様子もなかったので、誰も使っていないどころか、もしかしたら知られていない部屋だったのだろう。


ところが、その部屋を使い始めた頃から、夢見が悪くなった。追ってくる何かから、一生懸命逃げる夢だ、しかし、夢の中は走っても走っても前に進まず、追いかけてくるものに捕まって殺されることもあった。あまりにも夢の中で必死に逃げていたら、2段ベッドから転げ落ち、下で寝ていた母親の上に落ちたこともある。


その時は、小部屋と追いかけられる夢を関連付けて考えることはなかったが、その夢が中学受験の勉強ですでに寝不足な私に追い打ちをかけ、授業に出るのが余計に億劫になるという連鎖が始まったのは、やはりその小部屋を見つけてからだと思う。

もう一つ、変な夢と言えば、私がその小部屋でうとうとと眠ってしまうときは、必ず日本兵が出てくる夢を見た。濃い灰色の兵服を着て、黒いブーツを履き、拳銃を背負い、制帽をかぶっている男の人が、敬礼しながら涙を流しているのだ。何が悲しいのかはわからないが、その人の涙を見ては、いじめられていることや父親に殴られる理不尽を思い出し、私まで泣いてしまっていた。

それでも私は小部屋に通うことを止めなかった、心も体も疲れていたから、一人でゆっくりとできるその小部屋が必要だった。そして、その小部屋にあるものを物色した。置いてあった少女漫画雑誌も読んでしまったし、昔のプリントを見て、わざわざ解いてみたりもした。古本の山の中にはロシアがソ連だったころの古い地図帳もあり、面白く眺めていた。


あらかた部屋のなかの物を見尽したと思ったとき、1冊の白いアルバムが出てきた。どうしてこんな面白そうなものに気が付かなかったのだろう、ワクワクしながら開くと、戦時中の白黒写真がたくさん入っていた。日常生活の写真ではない、戦闘機の前で敬礼している若い兵士たちの写真や、壊れた建物と積みあがった人らしき何かを背に兵士が敬礼している写真、背の高い草が左側に生え、残りの地面は踏み固められ、内臓があらわになっているように見える子供から大人が何人も一直線に並べられて、兵士が棒でその並んだ人たちの中から何かを探すようなしぐさをしている写真、拳銃を背負った兵士の足元には明らかに裸足の足の裏と見えるものが写っているものもあった。写真の下には満州や南京と言ったメモ書きがついていた。白黒だから多少マシだが、明らかに戦場を収めた写真が何十枚と挟まっていた。そして、そのアルバムの最後には塩見南吉(仮名)と筆で書いてあった。

私は吐き気を覚えた、人が死んでいるところを収めた写真など初めて見た。それと同時にこれはもしかしたら大切なものなのではないかと思った。こんなに残酷で、こんなに戦争の悲しみを訴える写真が、こんな人目のつかない場所で眠っていていいわけがない。

私は教師に申し出ることにした。もう二度と見つからないであろう良い隠れ部屋を手放すのは惜しいが、このアルバムは私のちっぽけなエゴで隠してはいけないものだと思った。


そうしてあの小部屋には鍵がかけられ、私は隠れ部屋を失うことになったが、申し出たときに担任の先生は私を叱ったりしなかった。むしろ私にお礼を言い、この写真を持ち主に返してくれることを約束してくれた。

それから私は、持ち主は見つかったか、とちょくちょく先生に尋ねに行くようになり、おかげで先生との距離が縮まり、授業をさぼることもなくなった。

そのことでなんだか勇気を得た私は、両親に中学受験を辞めたい旨を訴えた。両親も私を叱ったりせず、「分かった、頑張ったね」と言い、中学受験の話はなくなった。


追いかけられる夢もぱたりと見なくなり、いじめは無くなったわけではないが、私にとってはずいぶんと平和になったある日の夜、あの小部屋にいるわけでもないのに、兵隊さんの夢を久しぶりにまた見た。そのときの兵隊さんは泣いていなかった、そして、私にあのアルバム差し出していた。よくわからないまま、私がそのアルバムを受け取ると、その兵隊さんは私の肩を叩いた。少し笑っていたかもしれない。ありがとう、とか、よろしく、と言われた気がした。


翌朝一番に先生の所へ行き、アルバムについて尋ねると、持ち主が見つかったという。ずいぶん前に授業のために、個人が学校に貸してくれたものだったが、当時の先生たちがアルバムを返さずに、皆、異動や退職をしてしまい、写真の行方が分からなくなっていたらしい。持ち主はもう紛失してしまったものだと思っていたから大層喜んでいたという。



大人になり、私がいかに扱いづらい生徒であったかを自覚した頃、その担任の先生にお礼と謝罪がしたくて、行方を捜した。しかし、先生は若くして癌で亡くなってしまっていた。だからここに書いておきたい。先生、迷惑ばかりかけてしまい申し訳ありませんでした、先生のおかげで私は救われました、ありがとうございました。

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