夢幻の人 - 10 -
翌日の放課後。水那が他の生徒と一緒に日直の仕事を行っているのを確認した上で、俊樹は保健室へと向かった。
その途中、職員室の前で見覚えのある女子生徒たちが河島に説教をされている場面と遭遇する。
そんな集団の後ろをお咎めなく通り過ぎて、廊下の突き当たりまで進んで、一呼吸吐いた。
初めてここに来た時と同じ、いやそれ以上に緊張しながら扉を叩くと「どうぞ、お入りください」と耳に優しい声が聞こえる。
室内に入ると昨日と変わらず事務机に向かっている瑞貴の姿。しかし昨日のようにすぐにこちらを向かずパソコンを注視していた。
そして作業に一区切りついたのか椅子をくるりと回転させて、俊樹を視界に入れる。
「ここに来る途中、河島が説教してたけどなんかあったの?」
まっすぐに向けられる瑞貴の無関心な視線に気圧された俊樹は、取り留めのないことを口にした。
「ええ……昨日より女の子が多かったためか職員室まで話し声が聞こえたそうで」
俊樹の選択は正しかったらしく、瑞貴はあの夜のように頑なな姿勢を見せず相も変わらず造りものめいた微笑を浮かべたまま彼の疑問に答えた。
「そうだったんだ……」
満足したことがわかると瑞貴は椅子を回して視線をパソコンの画面に戻した。会話をしながら顔色を見て、特に体調が悪い訳ではないと判断したようだ。
「み……センセー」
瑞貴は振り返らず、キーボードを叩く音だけが無機質に接触を拒絶しているようだった。
それでも俊樹は足を進める。答えてもらえなくても、見てくれなくても。
ただ、昨日考えて。これだけは瑞貴に伝えておきたいと思った。
一昨日再会して、懐かしい匂いを、体温を感じて。
その体温がまたほしくて。この言葉を、本当に信じてほしくて。
俊樹は椅子ごと、華奢な瑞貴の身体を抱きしめた。
予想外の行動だったのか腕の中の身体は思いきり震え、パソコンの画面には意味不明な単語が並ぶ。それでも俊樹は離れようとしなかった。
室内にも漂っている甘い香りを眼の前の首許から強く感じて、俊樹は眼を伏せる。
「……生きてて、よかった」
今まで抱えていた不安を含んだような、重い二酸化炭素を吐き出しながら、ただ一言だけ、音にした。
感情を必死に押し殺そうとしていることがわかる、不規則な瑞貴の呼吸が聞こえるほどの静寂。
今まで表面上穏やかだった瑞貴が激しく湖面を揺らしている理由は、まだ霧がかっていて知ることはできない。
しかし無抵抗な腕の中の存在が、確かに生きていることを確認できて、俊樹は腕の力を強めた。その儚さを、慈しむように。
あんなに追いつきたいと願っていた身長。ところが追い越してみれば瑞貴はとても小さくて、とても細かった。椅子越しでも腕がこの身体を捕らえることは容易い。
首許から香る甘い匂いに、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
あの時より、力がある。今度こそ、傷つけるものから守りたいと、俊樹は強く願った。
「あのまま……眼、覚めなくて冷たいままだったら……」
不安が現実ではなかったから初めて口にできた最悪の結末。
頭から離れなかったその恐怖をはっきりと否定する事実を得て、初めて俊樹は笑顔を浮かべる。それは、幼い子供のような屈託のないものだった。
「——っ……」
しかし、そんな俊樹の安堵とは正反対の、噛み殺した苦悶の悲鳴が瑞貴から聞こえると、彼は慌てて「センセー?」と様子を窺う。
一気に瑞貴の身体から、力が抜け落ちていくのを感じた。そして薄い肩を忙しなく揺らしながら、両手でこめかみを押さえて瑞貴は項垂れてしまう。
「……ごめん。思い出したく、なかったよね」
頭を抱えながら苦痛に喘ぐ瑞貴を見て、自分の欲求のままに不用意なことを云ってしまったと、俊樹は唇を噛んで謝罪を述べた。
過去を語るのは失言なのだと悟った俊樹は、労りを込めて震える背中をさする。しばらく続けていると、瑞貴の呼吸は次第に落ち着いていった。
ゆっくりと顔を上げた瑞貴は机の上からペットボトルを取って傾ける。
「……失礼いたしました」
水分を補給して発された声はいつも通り無機質なものに戻っていて、俊樹は微かに表情を歪めた。
瑞貴がペットボトルを机に戻した時、揺らめいた水面。それはあの苦々しい冷たい記憶に直結されて、俊樹は静かにため息を吐いて腕を解く。
俊樹はこの妙な空気に居心地の悪さを感じて、これ以上何もできない。
一方の瑞貴も、パソコンの画面に入力された文字の羅列を消すことすらしないまま、人形のように静かに座っているだけだった。
「また、来るから」
これ以上ここにいても埒が明かない。俊樹はそう判断して沈んだ表情に似合わない明るい声音で云って、保健室を後にする。
後先考えずに自分の気持ちだけを押しつけるなんて。自分で思っているよりもまだまだ子供だったと、俊樹は苦笑を浮かべた。
その足は煮え切らない思いを発散させるべく、昇降口に向かわず体育館へ進んで行く。
俊樹が中に入ると、部活動に励んでいた生徒たちが水を打ったように静まり返った。
「お、椎名珍しいなー。やっとうちに入部する気になったか?」
そんな中、柔道部の長が歩み寄ってきて俊樹の背中をばしばしと豪快に叩く。
「いや、今日もお試しで」
「何だ、椎名ならいつでも歓迎だぞ」
そんなやり取りもいつものことで、部長が残念そうに肩を竦めるのを見た俊樹は、勝手知ったる部室へ向かっていった。
その部屋には、なぜか部員ではない俊樹のロッカーがある。そこから柔道着を取り出して着替えた俊樹は、体育館に戻って練習に勤しむ生徒たちに混ざった。
瑞貴の移り香が、僅かながらも俊樹の精神を安定させる。
事情がわからない今、感情だけで突っ走っては何がどうなるのかさえ、想像ができない。
初めて会った日の自己紹介で、瑞貴は臨時だと云っていた。それはいつまでのことなのか、本職の人間はすぐに見つかるものなのか。
焦ってはいけない。少しずつ慎重に探さなくてはならない。五年前は確かに羽ばたいていた、あの人の自我というものを。
瑞貴のことを考え過ぎて上の空だった俊樹に、手加減無しで全員がこてんぱんに伸されたのは、云うまでもない事実だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます