窒息寸前(少年Aの嫌悪/赤信号、点滅中)

 日中の宣言通り、真理は藍に一切そんな素振りを見せることがなかった。

 真理が作ってくれた夕食を一緒に食べて、食後のお茶にと昼間入れてくれた紅茶とは違う味のものを飲ませてもらった。

 今は一人で浴室にいる。肌の上を滑っていく水滴が心地好い。眼を伏せてこんなにゆっくりと湯浴みをするのは久し振りだと思った。

 程好い温度の湯にぼんやりと何も考えずに浸かり、さっぱりして浴室を出る。

 バスタオルで水滴を拭き取りながら大きな鏡に映った自分の姿に嘲笑が浮かぶ。そして鏡の中にいる自分からも間を置かずに同じものを返された。

 上気して色づいた肌。濡れて首筋に貼りついた毛先から雫が伝う。どこを見て男たちは自分を艶めかしいと感じるのか。どこをどう取っても醜く、穢れた生きものにしか見えない。

 身体を覆っていたタオルを頭から被って視界を塞ぐ。見たくない、こんなに汚れてしまった自分の姿。思わず腕に爪を立てて思い切り引っ掻くと湯上がりのやわらかな皮膚はあっさりと裂けて薄らと血が滲んだ。

 声にならない悲鳴は次第に呼吸を困難にしていく。遂には脳まで酸素が行き届かなくなり、呼吸の仕方がわからなくなった。

 ぐらり、と。空間の認識が困難になった藍は重力に従い床に倒れ込んだ。耳鳴りがひどく、自分が倒れた音さえ聞こえない。

 意識が混濁していく中、誰かに身体を抱き起こされた。温かい手のひらが背中をゆっくり撫でている気がする。

 呼吸にならずに喘いでいることには変わらなかった。しかし、次第に耳鳴りが治まってきて誰かの心音が耳に心地好く落ちてくる。


 「……こ………………は、いないよ」


 心音と重なって誰かの優しい声がした。何と云ったのかわからない。それでもとても安心できる声に藍は眼の前の誰かに縋りついた。


 「大丈夫……大丈夫だよ……君のことは僕が……」


 その言葉に藍は顔を上げて、雛鳥が親鳥に餌を求める勢いで眼の前の誰かに唇を重ねる。まるで酸素を奪い取ろうとするかのように唇を合わせては、他の音があれば消えてしまいそうなほどの弱々しい嗚咽を上げた。

 まだ親に保護されるべき年頃である藍が、虚勢を張るのを止めれば、幼く孤独に怯える姿が露呈される。

 強かで、艶やかに笑って大人を手玉に取っていても藍は、愛を忘れた雛鳥でしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る