お世話になります
黒猫くろすけ
第1話
すみませんね、お兄さん、ちょっとうるさかったですか? いえね、少しばかり飲み過ぎました。
え? そんなことはないですって? ああ、お兄さんは優しいや。いや、面目ないですわ。決して私、泣き上戸って訳じゃないんですけど。
え? はい、私は一人で来ました。ああ、お兄さんも一人なんですか。
へえ、忘年会の帰りにちょっと……ですか。お兄さんも好きなんですね。ああ、分ります、忘年会は会社の付き合い、決して楽しいだけのものじゃありませんもんね。そこでここで気を抜いて一杯と、そういう訳でしょ?
ええ、勿論私もお酒、大好きですよ。でもね、今日のはちょっと違うんです。何て言うか、このまま家に帰ったら、もう女房と一戦交えちゃいそうで。勿論普段からのモヤモヤもありますけど。余りにも面白くない事がありましたので……そう、女房に八つ当たりをしちゃいそうで。はい、分ってます。つまりは女房に甘えているんですよね。突き詰めて考えたら、男は女に敵いっこありませんもん。うん、そうなんですよ。
はい? その余りにも面白くない事って何かですって? え? お兄さん、私の話を聞いてくださる?
お~い、親父さん、ここにチュウハイ、一杯下さいな。そう、このお兄さんに。チュウハイでよかったですか? なんなら生でもいいですよ。あ、チュウハイで。あ、勿論私がおごりますよ。いえいえ、グッとやっちゃってくださいな。
あのですね。実は私、こう見えても小学生の頃、そう、小学三、四年生の時に、同級生の一人からいじめを受けたことがあるんですよ。
いじめ。嫌な言葉ですよね。相手はそう、山本って言いましてね。そいつは勉強も出来る方じゃない。運動神経だって決していい方じゃなかった。けどね、実に乱暴な奴だったんですわ。考えてみれば、私らは、小さい頃から人を殴ってはいけませんだの、乱暴してはいけませんだの、人の物を盗ってはいけませんだのと教え込まれてますよね。勿論、それに従ってやってきました。周りのみんなも、それが普通だったんですよね。
しかし、この山本という奴は違いました。頭も運動神経も良くなかったのに、実に簡単に人を殴ることが出来たんです。おまけに人の物を平気で盗むような奴でして。挙句の果ては、自分では手を出さずに、命令して誰かに物を盗ませることもしていたんです。ええ、そうです、今から考えるとチンピラとおんなじ思考回路の奴でしたわ。今じゃ、発達障害とかって、脳の機能が関係する、生まれつきの特性っていう説もあるそうじゃないですか。いえ、詳しくは知りませんがね。
で、私、自分で言うのもなんですが、運動神経は割りといい方でして、勉強だって出来た方です。腕力だってクラスでも一二を争う位でした。ですが、気弱な性格だったんですね。そこに山本が付け込んで来たんですわ。きっと面白くなかったんでしょうね。自分より何でも上手く出来る私が。
でも、私一人だけをいじめるって、そんなコトは無かったんですよ。多分、追い詰めて私が切れたらどういうことになるかってのが奴には分っていたんでしょう。
簡単に言うと、奴はクラスの男子どもを、いわゆる恐怖で支配していたんですわ。え? まさか、小学三、四年生ですから、今から考えると大した事はないんですけどね。そう、例えば、奴にはムダに逆らわないとか、いきなり小突かれても抵抗しないとか、まぁ、そんなコトですわ。ほんとに弱い奴にはさっきも言いましたけど、盗みをさせたり、他にも陰では随分と酷い事をしていたみたいですけどね。
今でもハッキリと憶えていることがあるんですよ。ある日の昼休み、山本がクラスの男子を呼んだんです。そこに一列に並べって。で、何か面白い事をしろと。
そんなコト急に言われて出来ますか? それで出来ないとビンタですわ。それを次々とやっていくんです。私も並ばされて、面白い事をすることも出来ず、無言でいたら奴はビンタをしていきました。
今でも時々夢に見ます。なぜあの時、殴り返さなかったのか? 相手は所詮小学三、四年生ですよ? 腕力はこちらの方がずっと上。やれば必ず勝ったのに。
でも当時の私は乱暴してはいけません、という縛りが身体に染み付いていたんですよ。いや~、悔しかったですよ、本当に。
で、私、一念発起して小学五年生から武道をやり始めました。空手ですけどね。精神と身体を鍛えるって名目でね。実際には人間相手に戦う術を覚えました。で、メキメキと上達しましたわ。
え? その空手で山本をやっつけたのかって?
いえいえ、そんなコトはしません。空手はそんなコトに使ってはいけませんしね。武道は何よりも精神性を重要視するのはお兄さんもお分かりでしょ?
第一、山本は五年生になる前に、引っ越していったんですよ。ある時、自転車を大量に盗む事件を起こしまして。首謀者として捕まり、その後転校。噂ではどこかの施設に入ったという話もありましたっけ。親御さんは随分苦労したみたいですよ。
その後はその山本とは会うことは無く、中学高校大学と終えて、私は地元に戻り就職しました。しかし、私の心の中には小学生の時の、あの記憶が、いつまでもくすぶり続けていたんですよ。
そう、もし今度山本に会うことがあったなら、その時に奴が乱暴者だったなら、懲らしめてやろうってね。え? 私ですか? 今でも空手はやってるんですよ。だから多分造作も無いことだろうって想像していた訳です。出来れば力ずくでも、奴に頭のひとつでも下げさせてやろうって。
そうなんですよ、そういう想いはいつまでも消える事はありません。かえって自分の中では、年月が経つにつれて、その想いを育ててしまうものなんじゃないでしょうかね。
そのうち、私はいつかそいつと偶然出会う時を、楽しみにさえするようになっていたんですわ。その時にはこちらから睨みを利かして威圧してやろう。出来ればその鼻先に指パッチンでもしてやろうってね。
で、今日なんです。町で偶然声を掛けられました。始めは誰だか分りませんでしたよ。でも、いきなりお尻を蹴り上げられたんです。奴は笑って言いました。お前~だろ? ってね。懐かしいな、元気だったか? 久し振りだな。今度ゆっくり酒でも飲もうや。じゃあなって。
私はただ呆然としてしまって。相手を睨みつける事も出来ず、ただ愛想笑いをするだけが精一杯で。
おまけに私は何と言ったと思います? 自分でも思い掛けないんですが、なんと……
「お世話になります!」
って頭まで下げちゃったんですよ。お世話になります……はい、いつも営業で使ってる常套文句ですよね。
奴は手を振りながら「おう!」って言いつつ、人混みに紛れてしまいました。
ああ、ナンというコトか……もし会ったらこうしてやろう、ああも言ってやろうと長年夢見ていた再会が、事もあろうに愛想笑いとお世話になります! で終わるだなんて。嗚呼……なんて私は馬鹿な事を……なぜあの時、蹴り返して謝らせなかったのか……
多分これからは、「お世話になります」、この言葉も私の中ではトラウマとなるんでしょうなぁ……
へへ、ありがとうお兄さん、話を聞いてくれて。いえいえ、私は立派なんかじゃないですよ。ただの意気地なし野郎なんですわ。だからこうしてやるせない一人酒をって訳でしてね。
お~い、親父さん、こちらにチュウハイをもう一杯ね。
あの、お兄さん、申し訳ないですが、もう少しだけうるさくしていいですか? 私、もうちょっとだけ泣こうと思います。もう少しだけ、泣こうと思うんです……
お世話になります 黒猫くろすけ @kuro207
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