明治編

生野とセイ


 ――時は明治四十三年の冬。


 ここは、帝都にある高浜たかはま様のお屋敷である。


「色はにほへど、散りぬるを、我が世たれぞ、常ならむ……」

 お屋敷の使用人として働くあたしは、仕事がひと段落ついた夕暮れ、裏庭の片隅でそこらに落ちていた小枝を拾い上げて、カリカリと地面に文字を書いた。すぐ下の弟は学校に通っていたけれど、下に弟妹の多いあたしは子守りや畑の手伝いで一日が終わってしまう。結局、学校に通うことはできなかった。

 せいぜいいろは歌を覚えるくらい。しかし、農村生まれの使用人に読み書きなんて必要ないと言われればまったくそのとおりである。

「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」 

 あたしの言葉を追うように聞こえたうつくしい鈴の音のような声に、慌てて立ち上がり振り返った。そこにいらっしゃったのはこの高浜のお嬢様でおられる、生野いくのさんであった。

 生野さんはふふ、と花のように笑い、地面に書いたあたしの下手くそな文字を見る。

「生野お嬢様、駄目です。お着物が汚れてしまいます」

 上等な振袖は、豪華絢爛な桜模様で、あたしが触れただけで汚れてしまいそうで触ることすらできない。

「まぁ。そんなことを気にするようなお嬢様であったなら、私はセイさんに話しかけたりなどしないわ」

 からからと笑いながら生野さんは袂からちゃらりと音を奏でて何かを取り出した。生野さんは変わっている。本来、お嬢様があたしのような使用人に話しかけるためにわざわざこんなところへくるなどありえない。

「今日はね、これを見せたかったの」

 生野さんの白魚しらうおのような手に乗っていたのは、まあるい見たこともない金属の何かであった。その見事な細工は学のないあたしの目を奪うのはたやすく、魅入られるようにそれを見つめた。

「懐中時計なのよ。お父様に随分と我儘を言ってしまったわ。どうせ欲しがるのなら宝石のひとつでもねだってみせたらどうだ、なんて小言を言われるくらい。けれど、そう、私はね、この時計を一目見た瞬間に恋に落ちてしまったの!」

 ――ほう、とため息が溢れる。生野さんのきらきらと輝く眼差しは、本当に恋する乙女のようであった。

「……綺麗な、時計ですね」

 それは、芸術品のようだった。お屋敷のなかに飾られている壺や絵画の良さは分からないけれど、生野さんの手のひらに乗るほどの小さなそれは、とてもうつくしかった。

「お父様には呆れられてしまったけれど、セイさんならそう言ってくださると思ったの」

 ふふ、と嬉しそうに微笑む生野さんは、とても綺麗だ。





「生野お嬢様、ご結婚が決まるそうねぇ」

 洗濯物を干していると、使用人仲間の花江さんが世間話のように告げる。

 生野さんは十七歳におなりで、ご結婚の話が出てきても不思議ではない。

「そう、なんですか」

「ええ、なんでも旦那様がえらく気に入った方らしくてね」

「良い方だと、いいですね」

 生野さんのことをしっかり愛してくださる方だといい。

「おセイ! ちょっと!」

 使用人頭の大久保おおくぼさんに呼ばれてあたしは顔をあげた。

「はい! ただいま!」

 なにか別の仕事を言いつけられるのだろうと思ったら、大久保さんは声を潜めた。

「親御さんが来てる。裏口に案内しているから」

「え、うちの親がですか……?」

 うちは田舎の百姓だ。あたしの下には何人も弟と妹がいて、だからこそあたしは働きに出ている。

「母ちゃん、どうしたん」

 慌てて会いに行くと、母ちゃんはいつもよりも綺麗な着物でそこに立っていた。

「ああ、セイ。すまんねぇ、忙しいだろうに」

「いいよ、何かあったの?」

「いや、悪いこととかじゃないよ。あんたにね、縁談があってね。父ちゃんとも相談して、受けようかと思ってんだ」

「……縁談?」

「知らない人じゃないよ。鉄郎てつろうだ、二軒隣の」

 ああ、と出てきた名前に納得する。

 鉄郎はあたしより一つ上の、幼馴染みたいなもので、同じく百姓だ。

「だから、ここでのお勤めも辞めて戻ってきなさい」

「……うん」

 十五歳のときからこのお屋敷で働いてきた。最初はお掃除といっても旦那様方の目につかないところ、それが、少しずついろいろ任されるようになって三年半。


 ――そうだ、あたしだっていつ嫁いでもおかしくない年だった。




 その日の夕暮れ、庭の落ち葉を掃いているときだった。

「セイさん」

 女学校帰りの生野さんが、少し憂い帯びたお顔で声をかけてくださった。

「おかえりなさいませ、生野お嬢様」

「お話、いいかしら」

 生野さんが人目のあるところであたしに声をかけてくださることは、ほとんどない。お嬢様と使用人という垣根は確かにここにあり、それを越えることはあってはならないからだ。

「お部屋に、お茶をお持ちします」

 ここで会話を続けるわけにもいかない。生野さんは「そうね」と頷いて、そのあとに「おねがい」と微笑んだ。


 かちゃり、と生野さんのもとへお茶を運ぶ。

「……ご結婚のこと、でしょうか」

「ああ、聞いてしまったのね。そうなの」

 お屋敷のことで、使用人の耳に入らないことなんてない。あたしは苦笑しながら頷いた。

英吉利イギリスに留学に行ったこともある方なのよ。お父様もたいそう気に入られて、婚約はすぐ決まったし、とんとん拍子で結婚話まで進んだわ」

 ふぅ、と生野さんはため息を零す。

「……良い方ではないのですか?」

「いいえ、そうではないの。とても良い方よ。……そうね、たぶんきっと、愛せると思うわ」

 けれど、と生野さんは声を落とした。

 伏せられた睫がふるりと震える。

「私は、もう少し少女でいたかった」

 生野さんはきっと、女学校を中退することになる。結婚が決まり、女学校を辞める人は珍しくないのだと、つい先日生野さんがおっしゃっていた。ちょうど生野さんのご友人が、辞めた頃だった。

「女学校に通って、家ではこっそりとセイさんとお話して……そんな日々を、もう少し過ごしたかったの」

 伏せられた睫の下で、生野さんの黒い瞳が悲しそうに揺れている。

「セイさんにも、なかなか会えなくなってしまうわね。あまり実家に帰っていたら、お父様に叱られてしまいそうだし」

 あたしはぎゅっ、とお盆を抱きしめた。

「あの」

 口の中が渇いていて、うまく声が出ない。

「……あたし、来月いっぱいでお暇をいただくことになったんです」

 母ちゃんがきたあと、すぐに大久保さんに相談した。今月はもう中旬を過ぎていて、さすがに今月末では急すぎるということになったのだ。

「セイさんが?」

 生野さんが驚き目を丸くする。はい、とあたしは小さく答えた。

「あたしも、結婚……することになりまして」

 だから、生野さんが結婚後にこのお屋敷に来たとしても、あたしはいない。

「……そう、なの。そうね、セイさんもそういうお年頃ですものね。どんな方なの?」

「幼馴染、でしょうか。すぐ近所の奴ですよ」

「気心知れた方なら良いと思うわ」

「……そうですね、今更緊張するような相手ではないので、よかったとは思います」

 彼の親とも顔見知りで、やっていることは実家と同じ農業。特に難しいことがあるわけじゃない。この綺麗なお屋敷で垣間見るうつくしい世界があたしにとっては別世界で、ただの元の日常に戻るだけだ。

「……そうなの。さみしくなるわね」

 噛みしめるように、生野さんは呟いた。その小さな声に、あたしは「はい」と返す。それは部屋の中に空々しく響いて、消えていった。



 それからすぐに一月は経ち、あたしは高浜家のお屋敷を去る日がやってきた。

「セイさん」

 挨拶を終え、ひっそりと裏口から出ていこうとするあたしに、隠れていた生野さんが声をかける。

「……生野さん」

 昨晩のうちに、生野さんには別れの挨拶を済ませていた。

 どうして、と思っていると生野さんはあたしに駆け寄り、ちゃらり、と音を立ててあたしに何かを握らせる。すぐに何か分かった。

「餞別に、持って行って」

「これは……頂けませんっ! こんな高価なもの……!」

 それは、いつの日か生野さんが見せてくださったうつくしい懐中時計だ。あたしが手にするような、そんな安価なものではないことくらいすぐに分かる。

「もらって。お願い」

 押し返そうとするあたしの手を包み込んで、生野さんは真剣な眼差しで告げる。

「どうせお父様は失くしたといっても気にしないわ。私は、セイさんにこれをもらってほしいの」

 でも、というあたしの声が口の中で消える。

 重なり合った手の中で、懐中時計の鎖がちゃらりと鳴った。





 あたしが高浜のお屋敷を去って数年後には明治という時代は終わり、時は大正を迎えた。

 帝都での賑わいも、田舎には届いてくるはずもなく、忙しくものんびりとした時が足早に過ぎていく。あたしは嫁いでから二男二女を出産し、育てた。

 じりじりと焼け付くような日差しの夏だ。吹き出てくる汗を手ぬぐいで拭う。

「セイ」

 夫に呼ばれて顔を上げる。日に焼けた無愛想な顔は、それが素なのだと今はもう知っている。

「どうしたん」

「手紙、きとる」

 手紙? と首を傾げて受け取る。綺麗な便箋に、流麗な文字で書かれていた。田辺 セイ様、と旧姓で書かれているそれは、おそらくはじめは実家に届けられたのだろう。

 汚れた手を手ぬぐいで拭き、封を切る。

 ――手紙は、懐かしい生野さんからのものだった。


 拝啓、セイさん。

 暑さが厳しゅうございますが、いかがお過ごしでしょうか。


 うつくしい文字で綴られた挨拶のあとには突然の手紙を詫びる一文と、生野さんの近況が書かれている。


 お忙しいこととは存じますが、もしよろしければ、帝都でお会いできないでしょうか。


 どきりと胸が高鳴る。

 あの懐かしい日々が鮮やかに蘇る。そう、生野さんは、恐れ多くもあたしのかけがえのない友人であったのだ。少女であったセイの、大切な友人だった。

 けれど今は忙しい時期である。

 手紙を見下ろして、目を閉じた。そう、住む世界はもう違うのだ。あたしがあの世界に片足を突っ込んでいた頃とは違う。

「行けばいい」

 手紙を覗きこんできた夫が、そう告げた。

「でも」

「嫁いできてから十何年、おまえは息抜きの暇もなかっただろう。まして恩人ともいえる方からの誘いだ。母ちゃんには俺から言っておくから」

「……でも」

 背中を押してくれる夫の言葉にも、まだ迷う。

 うつくしい思い出はうつくしいままでもよいのではないだろうか。ちゃらり、と頭の中で懐中時計の鎖が鳴る。カチコチ、カチコチ、と時計の音が聞こえてくるようだった。



 それから二週間後、あたしは帝都の土を踏みしめている。

 普段は着ないような着物を着て、様変わりした帝都の様子にそわそわしながら歩く。

 あれから生野さんには一生懸命にしたためた手紙を送り、生野さんからうつくしい手紙がまたやって来た。

 待ち合わせは正午。時間まではまだ少しあるけれど、この人混みの中で生野さんを見つけることができるか不安だった。

 手のひらのなかで、カチコチと懐中時計が鳴る。

 あたしには分不相応なそれを、しっかりと握りしめた。


 カチコチ、カチコチ。


 間もなく、約束の時間というときだった。

 固く握りしめていたはずの懐中時計が手のひらから零れる。ちゃらり、とさよならというように転がり落ちていく。

「あっ」

 振り返りながら懐中時計が地面に落ちるのを見た。

「すみません」

 大事な大事な時計だ。人混みの中でそれを拾わなければと踵を返そうとしたところで、時計が跳ねる。


 地面が、悲鳴をあげた。



 ――大正十二年、九月一日の正午。関東大震災発生。



 あたしと生野さんは、終ぞ、再会を果たすことは、なかった。

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