イクトセイ

青柳朔

本編

幼少期

いくととせいか


 アタシとあいつは、幼なじみで相棒だった。


「せーか! 帰るぞー!」

 小学校の放課後の掃除が早く終わったほうが、もう一人の教室に顔を出す。今日は一緒に帰ろうね、なんて面倒な約束はした覚えがない。いつだって当たり前のように一緒に登校して、当たり前のように一緒に帰った。

「まってまって! 一分で準備する!」

 同じ班の女の子たちと話し込んでいたせいで、すぐに帰れる状態じゃなかった。せっかちな相棒は六十秒からカウントを始める。

「いっくんとせいちゃんって、いっつも一緒だよね」

 長い髪をふたつのお下げにして、スカートをはいて、いかにも女の子らしい友だちは不思議そうに呟いた。

「それはせーかが手がかかるからかなー」

「はぁ? それを言うならいくともでしょ? 朝起きられないくせに」

 聞き捨てならない郁人いくとのセリフに反論すると、郁人も「はぁ?」とわざとらしい声を出す。

「なんだよおまえ、トマト代わりに食ってやらねーぞ」

「じゃあアタシはピーマン代わりに食べるのやめる」

 子どもっぽい言い争いに、友だちはくすくすと笑い出す。小学校三年生。よくも悪くも男女を少しずつ意識し始める年齢だった。

「じゃあねー!」

 けれどアタシたちの間にあるそれは、恋とか愛とかそんなんじゃなくて。ませた子には付き合ってるの? なんて聞いてきたけど、アタシたちのやりとりを見ればそんな甘やかなものじゃないと悟ってくれた。女の子はこういうとき敏感でわかりやすい。

「おまえらいっつも一緒だもんなー! ふーふなんだろー!」

 教室を出てふたりで歩いていると、男の子たちがこっちを指差して笑っている。子どもじみたからかいは男の子の特技なんじゃないかというくらい、この手のセリフは聞かされてきた。飽きたくらいだ。

「ばーか!」

 そんなからかいなんて意に介さない郁人は、大声で言い返した。

「俺とせーかは相棒なんだよ!」

 なっ! と得意満面な郁人に、くすぐったくて誇らしくて、アタシはいしし、と笑って返した。



 アタシこと小園こぞの聖花せいかが生まれたのは、六月九日。相棒である松浦まつうら郁人は六月十一日に生まれた。家も隣だったこともあって、ほんとうに生まれたときから一緒だった。両家族は間をとって十日にふたり合わせて誕生日を祝ってしまうくらい。

 なにをするにも一緒だった。遊ぶのはもちろんイタズラをして叱られるまで、全部ふたりで。


 ふたり一緒なら、いつだって最強だった。




「そういえばさ! せーか、これ見てみろよ」

 郁人の部屋で遊んでいるとき、思い出したように郁人がそう言った。郁人はいつも思い出すのは突然だ。

「なに?」

 郁人が勉強机の引き出しを開けて、ちゃらりとまあるい時計を取り出して見せた。

「これ、ばーちゃんからもらったんだ」

「静子ばーちゃんから?」

 物静かな静子ばーちゃんは、アタシも小さい頃からお世話になっている。うちの親は共働きだから、アタシはいつも郁人の家に入り浸っていて、静子ばーちゃんはそんなアタシと郁人のお目付け役だった。

「ん。なんか俺が持っているのがいいだろうって。でもすごく大切なものだから乱暴に使ったらダメだって」

「ばーちゃんの言うことならきかなきゃダメだよ」

 ――だな、と郁人も頷く。

 郁人はばーちゃんっ子だ。そしてアタシも、静子ばーちゃんが大好きだ。

「いつか、大切な人ができたらプレゼンしなさいってさ」

「へぇ、なんか結婚指輪みたい」

 大切な人といえば、結婚する相手だろう、という発想は我ながら単純だと思う。

「時計だぞ?」

「でも、すごくかっこいいし綺麗だよ」

「それだけじゃないんだぜ、ほら」

 郁人が懐中時計の蓋を開ける。繊細な文字盤がすぐに目に入るが、郁人はここ、と蓋の裏を指差した。

「文字が彫ってあるんだ」

 郁人の指差したところには、確かに文字が刻まれている。

「イクトセイ?」


 ――そう読めた。カタカナで、イクトセイ。


「そう! きっとさ、何かの暗号なんだよ!」

「……なんか、アタシといくとみたいだね」

 じ、とアタシは彫られた文字を見つめて呟いた。へ? と郁人は目を丸くする。

「イク、と、セイ。でしょ?」

 郁人の『イク』と聖花の『セイ』――せいちゃん、と呼ばれているから思い至ったのかもしれない。

「ほんとだ……すげぇな新発見じゃん!」

 郁人がはしゃいで声をあげる。そっかな。そんなにすごい発見じゃないと思うんだけど、と思いながらも嬉しくて照れくさくて笑う。

「こういうの、運命っていうのかもな」

 郁人の呟きと一緒に――ちゃらり、と懐中時計の古びた鎖が鳴った。

「せーか。誕生日何がほしい?」

「ショートケーキ。いくとは?」

「俺もケーキ」

 毎年決まったプレゼントをお互いにねだって、にやりと笑う。当日家族には祝ってもらえないから、お互いに誕生日にはスーパーやコンビニで売っている二個で数百円のケーキを買って一緒に食べるのがお決まりになっていた。

 二人一緒、として扱われることに不満はなかった。なぜならアタシといくとは相棒だからだ。相棒は二人一緒で当然だから。

 そう、六月九日が小園聖花の誕生日で、六月十一日が松浦郁人の誕生日なのだとすれば、六月十日は郁人と聖花の誕生日なのだ。

 だから、それぞれ祝うのは当たり前なのだ。




「せいちゃんのいっくんは仲良しだねぇ」

 夏休み。郁人の家の庭で水鉄砲でびしょ濡れになりながら遊んでいると、静子ばーちゃんがにこにこと笑ってそんな今更なことを言っていた。

「うん、仲良いよ」

「だって生まれてからずっと一緒だし」もちろん喧嘩しないわけじゃないけど、仲は良い。相棒だし。

「仲良しなのはいいことだよ」

 静子ばーちゃんはよしよしと頭を撫でて、ほらそろそろ上がんない、着替えないと風邪ひくよ、とバスタオルを寄越した。

 濡れた手足を拭いて、庭先の窓からリビングに入る。夏は扇風機が大活躍だが濡れ鼠の二人には少し寒い。

 静子ばーちゃんはほれ見たことか、と笑いながら麦茶を出してくれた。カララン、と氷が軽快な音を鳴らす。

 今度は夜に花火をやろう、次の日曜日には夏祭りがあるね、蝉を捕まえに行こう、学校のプールに行こう、夏休みはまるで永遠であるかのようで、やりたいことは尽きない。

「せいちゃんもいっくんも、宿題やりなさいねぇ」

 子どもは遊ぶのが仕事だ、なんて甘やかしてくれる静子ばーちゃんも、宿題ばかりは見逃してくれない。

 ぐぬぬ、と二人で静子ばーちゃんに無言の抵抗を試みるも、ばーちゃんはにーっこりと笑ったままだ。勝ち目はない。

「せーか、着替えてくるついでに宿題持ってこいよ。一緒にやろーぜ」

 服は夏の暑さで生乾きまでいっているが、やはりばーちゃんが風邪をひくから着替えてきなさい、と有無を言わさず決定を下す。

「おうよ!」

 ぐいっとグラスの麦茶を飲み干して、隣の我が家に戻る。

 宿題だってなんだって、二人でやっつけてしまえばあっという間だ。





 小学六年ともなると、ふたり一緒というのが当たり前になって冷やかされるようなこともなくなった。

 アタシの髪はばっさりとしたショートカットで、スカートを好まない男の子っぽい性格も影響していたのかもしれない。

 郁人はこの頃から背が伸び始めていて、女の子たちにモテるようになっていた。

「隣のクラスのあやかちゃん、郁人くんに告白したんだって!」

 小学生でもそわそわし始める二月のバレンタインデイ。誰が告白しただの誰が誰のこと好きなんだと、アタシの耳にも届くようになっていた。

「いくとに? みんな物好きだよねぇ」

「だって郁人くん、女の子にやさしいもん。好きだって子たくさんいるよ?」

 それは、美代みよねぇとはるかねぇのせいだと思う。上に姉がふたりいる郁人は、そりゃあもう女の子にはやさしく! と叩き込まれているから。

 その女の子のなかに、アタシは含まれない。アタシは相棒だからだ。

 隣のクラスのあやかちゃん、ねぇ、と典型的なかわいらしい女の子である彼女を思い出す。セミロングの髪はさらさらで、ピアノを習っていて、男子に人気の女の子だ。


 けれど彼女の恋が叶わないことをアタシは知っている。


「告白されたんだって? まったく、いい男はたいへんだねぇ」

 郁人の部屋でゲームしながら、アタシはいしし、と笑う。

「なんで知ってんの?」

「女の子の間じゃ持ちきりだよ」

「うわーこえー」

 筒抜けかよ、と郁人は笑う。最初こそ告白されたときに報告されていたけれど、それもこの頃はなくなった。めんどうになったのか、それとも必要ないと思ったのか。

「……ちゃんとごめんなさいした?」

 問いかけると、テレビ画面では郁人の使うキャラがアタシに倒されるところだった。

「……したよ」

「そっか、よーしいいこいいこ」

「……何してんの」

 郁人の髪をぐしゃぐしゃと撫で回すと、憮然とした顔で郁人はアタシを見上げていた。

「ん? いくと、女の子フったあとって落ち込んでるからさー」

 アタシが答えると、郁人はまっすぐにアタシを見て「そりゃ」と口を開いた。何度か口をパクパクさせて、目を伏せる。

「誰だって、好きな人には好きになってもらいたいだろ」

 だから、と郁人は呟いた。

 応えることはできないから、ちゃんとごめんなさいって言うけれど、でも、相手の気持ちがわかるから辛い。

「……わかんない」

「せーかは子どもだからなぁ」

「いくとのほうがあとに生まれたくせに」

「たった二日の違いだろ」

 うるさぁい! と郁人にやり返したあとでそれこそさ、もアタシはわざと明るく振る舞った。

「いくとは香奈恵かなえさんに告白しないの?」

 ――いしし、とイタズラっぽく笑うと、郁人はむずかしい顔をしている。

「相手にしないだろ、小学生のガキなんて」

「……春には中学生だよ」

「それでもだよ」

 また。

 郁人はむずかしい顔をする。

 香奈恵さんは、美代ねぇの友だちで、アタシたちより五つ上で、高校生だ。去年、郁人は綺麗な香奈恵さんに一目惚れというやつをしたらしい。

 アタシには、よくわからない。

 じくじくと、お腹が痛んだ。

(なんだろ、変なものでも食べたかな)

 トイレ、と立ち上がって、我が家のように慣れた郁人の家のトイレに入る。え、と小さな声が溢れる。下着が真っ赤に染まっていた。

(――え、なに、血? 病気かなにか?)

 パニックになってトイレのなかで立ち尽くす。郁人を呼ぼうかとも思ったけれど、さすがにこんな相談を郁人にできない。

 ぐるぐると考えていると、友だちのなかで生理が始まった、と言っている子がいたことを思い出す。まさか、これがそれか。でもどうすればいいのかさっぱりわからない。

 隣の自分の家に戻っても、お母さんはパートでいない。おばちゃんも留守にしているし、静子ばーちゃんはお茶のみ友だちの家に行くって言ったんだっけ。どうしよう、どうしよう。どうすればいい?

 そんなときだった。

「ただいまー」

 玄関のあく音と、美代ねぇの声。

「……みよねぇ」

 トイレからそろりと顔を出すと、高校のブレザーを着た美代ねぇが「どうしたの」と目を丸くする。

 美代ねぇが歩み寄ってきて、どう説明していいのかわからなかったけれど、美代ねぇはすぐに理解してくれた。

「聖花、はじめて?」

 端的な問いにこくりと頷く。

 待って、と美代ねぇは一度部屋に向かって、そしてすぐに戻ってきた。テキパキとどうすればよいのか教えてくれる。


 ――ほっとして泣きたくなった。


「せーか? 腹でも壊したん?」

 帰りが遅いアタシを不思議に思った郁人が二階から降りてきたときには、どうにか落ち着いていた。

「ちょっとねー。あんたたちなんか拾い食いでもしたんじゃないの?」

「してねーよ!」

 美代ねぇがあっさりと誤魔化してくれた。

「もう少しうちで休んでな。どうせ裕昭帰ってきてないでしょ?」

 よしよしと美代ねぇに頭を撫でられてほっとする。そんなにいてぇの? と郁人は首を傾げていたけれど、アタシは美代ねぇに甘えるふりをして無視した。

 お母さんがパートから戻った頃に家に帰って、もごもごと今日のことを告げると、あらあら、と微笑んだ。

「聖花もおとなになったってことねぇ」

 なんて赤飯を用意し始めるものだから、恥ずかしい。

 心はまだまだ子どものままなのに、身体だけはおとなになるなんて、変な話だ。



 その数日後、帰り道、郁人と歩いているときだった。

(あ、香奈恵さんだ)

 美代ねぇと同じ高校の制服を着て、香奈恵さんが歩いていた。郁人に教えてあげようとして、はたと気づく。隣に男の人がいた。たぶん、同じ高校の人だろう。

 仲良く手を繋いでいる二人が、例えばアタシたちのような関係であるわけがない。

 ――ダメだ。

(いくとに、見せちゃダメだ)

 高校の制服を着ている香奈恵さんと、ランドセルを背負っているアタシたちは大きく隔てられているような気がした。郁人と、香奈恵さんの隣にいる彼とは、同じ土俵にすら立てないと見せつけられているようで。

「いくと! 早く行こう!」

 一分一秒でも早く、そう気持ちが急いた。

「なんだよ突然」

「いいから!」

 郁人の腕を引っ張ったけれど、郁人は変な顔をするばかりだ。そんなことをしているうちに「いっくん?」と綺麗な声がアタシたちを呼び止める。

 香奈恵さんがやわらかく微笑んで、こちらに手を振って歩み寄ってくる。

「こんにちは、今帰りなの?」

 隣にいる彼のことなど気にかける様子もなく、香奈恵さんは微笑みかけてくる。郁人の顔が、一瞬だけ凍りついたのが分かった。アタシには、分かった。

 香奈恵さんは残酷なくらい呑気に「仲がいいのよ、この子たち」なんて彼氏と話している。これだけ間近で見ると、いくらバカで鈍感なアタシでも分かる。恋人同士、というやつだ。絶対に、そうだ。

「香奈恵さんこそ、カレシとデート?」

 くしゃ、と郁人は子どもらしく笑って香奈恵さんをからかう。

「え、やだもう! からかわないの!」

「お邪魔しちゃ悪いし、俺たち行くよ。仲良くね!」

 ぐ、と郁人がアタシの腕を掴んで走り出す。背後から「もう」と照れた香奈恵さんの声が聞こえた。

「いくと」

 行き先なんて決まっていないようだった。ただ郁人は全速力で走る。それに引きずられるようにアタシも走った。郁人の顔が見えない。

「いくと」

 何度か名前を呼んだところで、郁人は立ち止まった。河川敷の遊歩道は、今の時間帯犬の散歩をする人くらいしかいない。

「……おまえ、何気ぃ遣ってんだよ、バカだな」

(――そんな泣きそうな顔で言ったって、説得力ないよ)

 郁人がアタシの手を離した。

「俺、知ってたよ」

 苦笑い、という言葉がよく似合う、そんな大人びた顔で、郁人は呟いた。

「前にも、見たことあったからさ。知ってたよ、香奈恵さんに恋人がいるって」

 その時の郁人の顔は、一緒に駆け回って笑い転げている時の顔とは全然違った。目の前にいるのに、すごくすごく遠い。

「なんで」

 気づけばアタシは口を開いていた。

「だったらなんで、好きでいるの。好きなまんまなの。そんなの、つらいだけじゃん。苦しいだけじゃん!」

 そんな顔を、するだけじゃないか。

 楽しいこともうれしいことも、ちっともないじゃないか。

 郁人の恋に、クラスの女の子たちが、きゃあきゃあはしゃぐような、そんなキラキラしたものはない。あるのは叶わない悲しみと、越えられない壁だけだ。

「せいかには、わからないよ」

 また。

 郁人だけが大人の顔をして、子どものアタシを諭すように微笑んだ。

「そうだよ、わかんないよ」

 気がつけばアタシはぼろぼろと泣いていて、郁人が「何泣いてんだよ」とアタシの頭を撫でた。わかんないよそんなの、泣いているアタシにもわかるはずがない。


 ずっと一緒だったのに、郁人ばかりが大人になっていく。

 子どものままのアタシを置き去りにして。


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