第5話 蜂蜜
目が覚めたら繭のところへ行く。
出かける前と帰ってきた後もそうする。
シュウにおやすみを必ず言ってからベッドに入る。
一日をそうやって繰り返していた。
もうシュウはどこへも行かない。
ずっとぼくのそばにいる。
その距離感が嬉しかった。
「おやすみ、おやすみシュウ。良い夢を」
錠剤を一錠飲み下して硬いベッドに円くなる。
毛布は頭までかぶるのが好きだった。
身体全部を包み込まれると安心する。繭の中に居る気分だ。
眠ろうと思って、でもなかなか寝付けずにいる。ここ数日続いていた。
眠れない理由を考える。トウマ・コウヘイの死だろうか。ケイイチの嘘みたいに優しい言葉だろうか。それともヨウの心配する声?
心配ないよ、と思う。きみに迷惑はかけないよ。
ナエはぎゅっと毛布を抱き寄せていっそう体を小さく丸めた。
何か物足りなくて、親指を口に含む。
赤ん坊みたいにそれに吸い付いて、だけどこれじゃない、と思った。
シュウについての思い出を辿ると、まず指を思い出す。
そして手、さらに腕。シュウとナエの距離はいつだって腕一本分開いていた。
ナエがいちばん好きな思い出はシュウから蜂蜜を与えられた時のこと。
いつだったかは分からない。
まだうんと幼い頃、シュウは瓶から指ですくった蜂蜜をナエの口に運んでくれた。
人差し指と中指の、甘い味と温かさ、口に含んだ指の柔らかさ、それがナエにとってのシュウだった。シュウの指は甘いのだと、ひと時本気で信じていた。
シュウの指は甘かったがシュウの表情や声は甘いばかりではない。ひどく不安定でいつも何かに怯えていて思いつめていた。暗がりを恐れた。朝を嫌った。子に対する暴力はなかったがその逆もなかった。良い母親とは思えないが、ナエにはそれは理由にならなかった。愛さない理由には不十分だ。
「シュウ。おやすみ、良い夢を。良い夢を」
口の中で唱える。
音にならない声で半ば祈り続けて、そうするうちに眠くなった。
夢ではいつも何かに追われている。
二年間も毎日のように追われるうちにその何かは同じものであると気付いた。
決して生き物だとは限らないが、それはいつも同じ目をしている。
底のない真っ黒な瞳。激しい憎しみに染まった黒い色。
その目は小さな家の中で、あるいは町で、背景のない世界で、ナエを追いかける。
やがて追いついて捕まえて暴力でもってナエを殺した。
そいつは強大で、ただそれだけで、恐怖だった。
逃げても逃げなくても殺される。抵抗してもしなくても殺される。
あるときは一瞬であるときは酷く丁寧に、あるときは痛みをもたらさずあるときは気が狂うほどの痛みをもって。それは、ナエを殺す。確実に殺す。優しい顔を見せていても、憎悪に狂った顔をしていても、行動の結果はいつも同じだった。
今日ナエはどこかの家の廊下に立っていた。
木目の並んだ床はぴかぴかで長く人が住み親しんだ家はどこか懐かしい。
壁には絵がかけてあるが見覚えのないものだった。
「あ……」
気付いて不意に声を漏らす。その手に何かを持っている。
重量感を今更実感し、落とさないようにしっかりを握りなおす。
拳銃だった。
予感がして振り返る。
振り向いた廊下の先には上へ上る階段があって、何かの足音が頭上を移動していた。ナエは心臓の高鳴りを感じる。危険信号だ。
立ちすくんだまま動けずにいると階段からあの目をした男が現れた。
その姿は不明瞭で黒い霧が集まって人のかたちを作っているようだった。
少女を見つけて駆け寄ると空気の抵抗を受けて人型の闇が揺らぐが引き寄せられるように元の形へ収束する。実体のない軽い存在に見えて足音だけは重厚だった。
黒い口が開き何かを叫ぶ。
木々の間をかける不気味な風鳴りのような音がナエの首筋を撫でた。
ようやく足が役割に気付いて逃げ出した。
廊下はどこまでも続く。影は両手を伸ばして追い縋るように走っている。絵本に出てくるお化けのようなひょうきんな姿のくせにその目は真っ黒な感情を結晶にしたような瞳をしている。無駄だと知っているのに必死で逃げた。
どうせ捕まって殺されるのは分かっている。それならば逃げる苦労だけでも味わわずに済むよう彼の前に身を投げ出してしまうほうが賢明だろう。
なのにナエは理屈ではなく体が先に逃げていた。
そうなると恐怖に支配され身体全部が抵抗する。捕まりたくない、死にたくない。
痛いのも苦しいのも嫌だ。朝が来るまで逃げ切れば、もしかしたら、今日こそは、無事でいられるかもしれない――その考えを今までに何度裏切られたことか。
走り続けて苦しくなって足も疲労を重ねた頃、少女はその手に持った銃の存在を思い出した。途端に勇ましい気持ちが胸に溢れる。
今日はいつもと違う。抵抗する明確な手段を持っている。
ナエは嬉しくなった。
今日こそ本当にあの男から逃げ切れるかもしれない、いや、逃げ切れる。
これがあるから、反撃できる。
それまで重荷でしかなかった拳銃を胸に抱き寄せた。
彼の風鳴りのような声が廊下を吹きぬけた、それを合図に振り返る。
両腕でしっかり支えた銃の引き鉄を、あの男の頭に狙いを定めて引いた。躊躇いはなかった。
腕ごと爆発しそうな衝撃と銃声が上がって、その割にはとても情けない弾けた水風船の音を立てて男の頭が消し飛んだ。
影で構成された体は、しかし頭を再生することはない。
「やった!」
歓喜の声を上げて、少女は飛び上がって喜んで、体中の緊張を解いて安堵する。
勝利の感覚に酔って上気した頬は笑みを浮かべていた。
笑顔のまま、ナエはそれを見た。
頭を消し飛ばされて尚速度を緩めず向かってくる黒い影の体を。
まだ危機は去っていないと気付くのは流石に早かった。
咄嗟に身を翻して駆け出す、でももう遅い。
一瞬で距離を詰められ男の手が腕を掴んだ。
後ろに捻り上げられ苦痛に声を上げる。
それからの何もかも一瞬のうちに起きた。
男は少女を背後から床に押し付けた。すぐさま膝を背に乗せ動きを封じる。ナエの捕らわれていない腕が無意味に空を掻いた。もがくこともできない。男は捻り上げた腕から銃をもぎ取るとナエの頭に銃口を押し付けた。硬い感触を抱くと同時にナエの鼓膜は破裂して、多分同時に頭も吹っ飛んでいたことだろう。
幸いにしてその頃にはもう目が覚めていた。
今日も結局結果は変わらなかったのだ。
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