第3話 廃院
ヨウはシャッターの下りた小さな診療所に帰り着いて、深夜の町に響かぬよう控えめにシャッターを押し上げてくぐった。
ハシュ区一丁目十七号一番ハルイ眼科。
もう潰れてしまった小さな診療所のロビーはカラッポで、まだカルテや書類が放置されたままのカウンターを横切る。
ドアの向こうが診察室になっていて、そこへ入って電気をつける。寿命の近い蛍光灯が明滅を繰り返しながら青白く部屋を照らす。染み付いた薬品の匂いは消えず、取り残された眼球のモデルや耳の断面の模型があちこちに並び、柱には悪趣味としか言えない目を模した時計が掛けられていた。
壁に様々な方向を向いた「C」の字が乱舞している。
繋がらない不完全な円、ランドルト環。
人によっては気持ち悪く思うか趣味の悪さに陶酔するか、ヨウに限って言えば彼の関心はそんなところにはなかった。
この部屋に、この町に潮の匂いがない。
それだけで少しは心穏やかに暮らして行ける。
診察室の奥に移動させた細い患者用のベッドに荷物を放る。
睡眠のために作られていないベッドと毛布の組み合わせはちぐはぐで、ヨウは構わずその上に寝転がった。
ここに暮らして二年になる。
この廃院に移り住むのと時を同じくしてヨウは少女に出会った。
その頃ヨウはまだ可能性を信じていた。
ヨウは助かった命で、その意味をずっと考えていた。
誰かを助けるための命だと考え、将来的には誰かが捨て去ったこの病院を蘇らせようと思っている。
医者になりたくてそのためにまず学費を稼ぐため働いた。
朝も夜も、ぐったり疲れて勉強なんて出来なくなるほど労働して、闇雲に体を動かして、夢も見ずに眠る日々。
――二年前のその日。
ナエがサイガに青い空の写真を貰った日、ヨウは放置されていた院内を片付けていた。
埃を払い廃棄物を処理し住み心地のよさを求めてあらゆる場所を改めた。
棚一面にずらりと並んだ何のサンプルかよくわからないものの入った小瓶を全て袋にまとめて表に出していた時に、先に出したゴミ袋の山のふもとに転がっていた少女を見つけた。目を閉じて、ぐったりと、掃除のついでに棄てられたように手足を投げ出している。
驚いて硬直した。言葉も出なかった。
「ここ、病院?」
問いにヨウは頷くことしかできなかった。動揺で判断力を失っていた。
先刻ゴミ袋を出しに来たときは居なかったはずだから、少女は棚を整理している間に来たのだろう。
「助けて。頭が痛い」
ゴミ袋の山に背を預けて瞼を開けているのさえ辛い様子だ。
喋るのも一苦労のようで、言葉は簡潔だった。
ここが病院という建物だったことは間違いないが、その機能は失われて久しい。
「待って、ここじゃ無理だ。向こうの病院に行こう。立てる?」
聞くまでもなく立てなかった少女を担いでヨウは院内へ運んだ。
ベッドは貸すほどあるし、幸い氷を作ってある。
棚に残された薬品を使うことは憚られたが常備薬程度のものは持っていた。
どろどろに溶けたシャーベットのように無気力な珍客をベッドに寝かせる。
触れた体は熱く、薄い胸が忙しく上下していた。
何が分かるでもないが首筋に指を当てて脈を図る。
とくとくと急いた脈拍を感じた。
そのもっともらしい仕草とこの状況に少し安堵したのか少女は体の緊張を解く。
「すこし待ってて。氷を持ってくるから」
ひとまず休ませて、症状が良くなってから本当の病院に連れて行こうと思った。
氷枕を頭の下に敷いてやって、ヨウは何故かまた細い首筋に指を当てた。
異常に早い脈拍が懐かしくて離れがたかった。
その理由を考えて、思い当たる。
スズメだ。
スズメを手のひらに載せたことがある。
そのときスズメの体が余すことなくその心音を伝えていた。
猫に襲われていたスズメだった。傷ついた翼で不器用に飛んでいた。
まだ家で家族と暮らしていたときのことだ。
スズメを手のひらに載せてその鼓動を感じて、心臓を直に持っているみたいでひやひやした。
ちいさな体、少し湿った羽毛。絶えず羽ばたき、せわしなく瞬きをする。
今この手の中に命があることとそのひ弱さに胸打たれてヨウはスズメに深い愛しさを覚えた。そのときの感覚に似ていた。
この小鳥を籠で飼いたいと思った。
他でもなくこの家の猫に傷つけられたスズメに対して、そう思うことはエゴだと自分で気付きながらも、わがままな子供の心がスズメを求めた。
見捨てれば猫にやられるか、傷ついた翼ではどのみちもう長くないだろう。
《見捨てる》なんて思い上がりも良いところだが少年の良心は痛んだ。
家で猫を飼うこともなければ小鳥は傷つかなかっただろう。でもその事実からは目を逸らしていた。
結局小鳥は外へ放した。
すぐにも死ぬかもしれない弱ったスズメは、しかし傷ついた羽で飛んでいった。
あのスズメの死骸は見たくないな、とヨウは思った。知らないところで死んで欲しかった。それはただのわがままだ。自覚していた。死なないで欲しいと願うのではなく死骸を見たくないと思うのが、そもそも自分本位な考えだった。きっとこの手で触れなければそう考えることもなかっただろう。
生きている、と実感しなければ、死骸を見ても平気だった。
「せんせい」
少女に呼ばれてはっとした。
「熱い」
すっかりぬくもった指先を首筋から退かす。白い肌汗ばんでいて額には雫が浮かんでいた。頬が赤い。適切な処置を待つ患者の顔で見上げられヨウは面食らった。
「せんせい。ぼく、どうなってるの? 手と足、ちゃんとついてる?」
あえぎあえぎ、そう尋ねる。熱に浮かされているとしか思えない。
何故なら手も足もちゃんとついていて、その手は今まさにヨウへ伸ばされている。
咄嗟に手を取ってヨウは励ました。
「大丈夫。大丈夫、五体満足だ。だって、歩いてここまで来たんだろ?」
「わかんない」
「どこから来たの?」
「……鍵、閉めて来なかった」
絶望的な口調で噛み合わない答えを返し、身じろぎをする。
心地よいのか氷枕に頬を押し付けた。呼吸が深くなる。
少し落ち着いたようだった。
ヨウは傍を離れて薬を探す。
発熱と頭痛だから風邪薬で足りると思った。
自分が持ってきた唯一の荷物から探り当てて水を用意して運んだころ、ベッドの上で患者は疲れきったように眠り込んでいた。
翌朝ヨウが起きたとき、時刻は七時を回ったところだった。
確かめるとまだ患者は眠っていた。
寝息は穏やかで顔にも色味が戻っている。
体温計が見つからないので額にそっと手を乗せるとしっとりと汗をかいていた。
爆発する前触れみたいな鼓動も収まっていてとても静かだ。
死んでいるかと思うほど。でもその考えはすぐ打ち消された。
そっと、瞼が開く。
まだ眠気に支配されている眼がヨウを見上げていた。弱弱しく持ち上げられた手に答えるように腕を伸ばすと、少女はそれを捕まえて口元へ運んだ。
おもむろに指をくわえ込む。
ヨウは仰天して手を引っ込めた。咄嗟に意図を問う。
「何!」
「あ」
今目が覚めたというように身を起こす。
「ごめん」
「いや……」
突然のことに対処の追いつかないヨウの心臓が動揺で弾んでいた。
口内の温もりと唾液の残る手をどうしたものかと扱いかねていると、辺りを見回していた少女が口を開く。
「ここ、病院? じゃないよね」
「昔は。今は違う」
「しかも眼科? 間違えた」
「それで、調子はどう?」
「騒いでごめん、大したことないんだ」
「それは良かった」
「先生じゃなかったんだね。迷惑かけて悪かったよ」
「いや、気にしてないよ。でも、一応本当の病院に行ったほうが良い」
「それは平気。理由はわかってるし、必要ないよ。ちょっと、自分でもびっくりしただけ。思った以上にびっくりしたから」
少女は床に足を下ろした。靴はどこにもない。
びっくりしただけ、それは本当だ。少女は言い訳がましく説明した。
覚悟して臨んだはずなのに実際の経験というのは大きかった。手足のもがれる悪夢に飛び起きると部屋が火事のように熱くて(熱いのは部屋じゃなくて体のほうだった)慌てて逃げたら上手く呼吸ができなくて、パニックに陥って病院に行こうと判断して歩いているうちにハンマーで殴られ続けているみたいに頭痛がした。
今はそれこそが悪夢だったみたいにすっきりしていて滑稽だった。
話に口を挟まず、ヨウは診察室備え付けのシンクへ向かい食器を出す。
冷蔵庫から飲み物を取り出して注ぎながら少女へ問いかけた。
「このあたりに住んでるの?」
「うん」
少女、ナエはヨウに差し出された飲料を飲んだ。
肺いっぱいに空気を吸い込んで吐き出す。
彼の中で夢を追う気持ちが強くなった。
先生と呼ばれたときに湧き上がった使命感や、スズメの命に対する庇護の気持ちを思い出すことで決意を新たにした。
二人はそれから何かと顔を合わせるようになる。
ヨウは変なところで無頓着で、半年近くナエの性別を知らなかった。
どんな仕事をしているのかも、何のためにそれをするのかも、知ったのは随分後になってからだ。
ナエが酷く体調を崩すことはあれ以来一度もなかった。
あれ以来、悪夢を見ずに眠る晩など一度もなかった。
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