第8話
「え、ホントに?気ぃ、変わんねぇよな?うぉっ、やった!」
多分ほとんど諦めていたのだろう、望月の予想以上の反応に俺たちはひどく驚いた。
「あ、言っとくけど見に行くだけだからな。望月、突っ走るなよ?」
勢いあまって舟橋さんに入団すると伝えられたらたまらないと思い、俺は一応念押しする。
分かってるって、任せとけ、と矢継ぎ早に答える望月に少々不安は残ったが、とりあえず来週の月曜にもう一度足を運ぶことに決まった。
「天音、明日か明後日、会えない?」
俺は週末の土日どちらかを天音と過ごしてみようと思った。
天音の好きな音楽のこととか、ゆっくり話しをしてみたい。
学校じゃあ時間も限られているし。
そうなると、家に遊びに来てもらうのがいいだろう。
突然の話に天音は一瞬ポカンとしたが、すぐに満面の笑顔になって、どっちも会えると答えてきた。
あまりの喜びように、俺は面食らった。
どっちかでいいんだけどな。
でもそんなに嬉しそうな顔をするなら……。
とりあえず翌日の1時半に、最寄りの駅に迎えに行くことを約束した。
次の日は朝から突き抜けるような青空だった。
初夏の新緑が駅までの並木に眩しく揺れている。
約束の時間5分前に駅の改札口に立つ。
しばらくすると改札の向こうの階段を、着いた電車の乗客らが一斉に降りてきた。
この中に天音がいるかなと思いながら、俺はチラチラと中を覗く。
しかし乗客がすべて改札を出てしまっても、天音を見つけることはできなかった。
この電車じゃなかったのかなと目を逸らした瞬間、突然肩を叩かれた。
「貫」
そこには私服の天音が立っていた。
あっ、そうか。
学校じゃないんだから制服のはずがないのに、俺は無意識に制服姿を探して、完全に見逃していた。
初めて見る私服は白のコットンシャツにジーンズ、それにライムグリーンのリュックを肩にかけている。
さらりとしたシンプルな服装は、天音を大変瑞々しく見せていた。
こうしてみると顔は中性的だけど、筋肉が程良くついた男らしい身体つきだ。
「ゴメン、全然気づかなかったよ」
俺は戸惑いながらも、努めて軽い口調で答えた。
天音はフフッと笑って、何で気づかないんだよ、と呟いた。
二人で連れだって歩くと、通りすがりの女の子たちが振り返る。
それも一度や二度ではなかった。
俺だけの時には無いことだから、これはやっぱり天音を見てるんだよな。
男として自分を残念に思うものの、天音には人を引き付けるオーラが確かにあると思った。
独特のしゃべり方だって、慣れてしまえばもう、そうじゃない天音というものが考えられないくらいだ。
「いいところだな。のんびりしてて」
天音は並木を見上げながら、眩しく目を細めた。
自宅までは最寄駅から徒歩20分程度。
途中、近所で評判のパン屋に立ち寄る。
「天音、しっかり昼飯食ってきた?オマエ、腹が減ったら困るんだろ?ここのパン美味いんだ。好きなの選べよ」
母さんと父さんは「夫婦オンリーディ」と称して、朝から二人でどこかに出かけてしまった。
母さんをアテにしていた俺は、天音の腹を満たせそうなほどのもてなしを準備することができなかったのだ。
「貫はどれが好き?」
かご型のトレイとトングを掴んで、天音は棚のパンを覗き込んでいる。
普通のトレイもあるのに、かご型を手に取るなんて、きっと想像を超える量なんだ。
一体、どれだけ食うつもりだろう。
「貫?」
質問に答えない俺を、不思議そうな顔で振り返る。
「ああ、ゴメン。そうだなあ、カレーパンは外せないな。あとはクリームパン。この練乳タイプが俺は好きかな。それから……」
言ってる傍から、天音は次々とトレイを埋めていく。
選ぶというより、目についたものすべてにトングをのばしている様子だ。
もうすでにパッと数えただけでも10個は乗っていた。
「オマエ、さすがだな」
「ん?」
天音は嬉しそうにメロンパンを掴みながら、俺を振り向いた。
やれやれ、金が足りるかな。
俺は財布の中身を思い返して、苦笑した。
ひとしきり品物を選び、会計に向かう。
パンは全部で18個あった。
俺が財布を出すと、天音は驚いた様子で、自分で払うからと後に引かない。
レジの前でオバチャンのような攻防戦を繰り広げた挙句、天音が根負けして俺が支払いをした。
「ゴメン。おごってくれるつもりだなんて思ってなかった」
「え、だってオマエお客様だろ?せっかくここまで来てくれたんだから、美味いもの食わせたいって思うじゃないか」
天音は、パン屋の大きな袋をカサカサ言わせながら、嬉しそうにほほ笑んだ。
「おごってもらって言うことじゃないけど、貫の食ったことない奴も、いっぱい味見できるだろ?」
俺はフッと笑って、そうだな、と答えた。
ファミレスの時も思ったけど、天音は食べ物をシェアしたがる人種らしい。
俺は今までそういうことをしたことが無かったから、あの時のパスタが初めてのシェアだった。
同じものを美味いなと言い合いながら食うと、何が変わるわけでもないのに、途端に特別な食事のように感じられるのも俺は初めて知った。
今まで知らなかったことが、どんどん俺の中に積み重なっていく。
それがひどく心地いい。
天音は時々袋の中をチラッと覗いては、その香ばしい香りを楽しんでいるようだ。
こんなに喜んでくれるのも嬉しい。
今日、誘ってよかった。
「家(うち)、ここ」
パン屋から10分ほど歩いた公園の先に、俺の家はある。
白い壁にコバルトブルーの屋根、玄関先にはヒメシャラの木が青々と茂った葉っぱを揺らしている。
建物も外構も母のセンスだが、俺は結構イケてると思っている。
天音もいい家だなと言いながら、門扉の外からグルリと見渡した。
「入れよ。親たち外出してて、今誰もいないんだ」
「貫、兄弟は?」
「あ、俺一人っ子。天音は?」
「俺も」
そうか、お互い一人っ子同士だったんだな。
そんなことすら、こうしてプライベートになって初めて知った。
玄関を上がってリビングに天音を通す。
窓も特注で、天井近くの高さから日が差すように設計されていて、部屋の中は外と同じくらいの明るさだ。
「すごく気持ちいい部屋だなあ。デザイナーズ設計?」
天音は天井を見上げながら、感嘆の声をあげた。
空気攪拌のプロペラが、ゆっくり回っている。
「母さんが全部設計したんだ。まったくの素人だけど、自分の気に入るように作ったみたいだよ?」
「へえっ、お母さんセンスあるな」
俺は天音にソファを勧めて、キッチンでコーヒーを淹れる。
本格的なサイフォン式のコーヒーメーカは手間が少々面倒だけど、インスタントなどでは引き出せない繊細な味が魅力だ。
「天音、パンは後でいいよな?」
「あ、うん。なあ、気ぃ遣わなくていいから、こっち来いよ」
「待ってろって。コイツで淹れたコーヒー飲んでほしいんだよ」
俺の言葉に、天音がツイっと立ってこっちに来た。
「あー、本格的だな」
カウンター越しにキッチンを覗き込む天音をチラッと上目づかいで見る。
湯が沸騰し始めたタイミングで、コーヒーを入れた漏斗をセットする。
しばらくすると、コポコポという音と共に、下のフラスコの湯が漏斗に上がった。
俺は竹ベラでコーヒーを攪拌して中の様子を確認した後、アルコールランプを外した。
「天音はどれくらいの濃さがいい?」
「んー、いつもはカフェオレなんだけど、ブラックで飲んでみようかな。だから普通くらい?……って、答えになってないか」
俺はハハッと笑って、普通くらいね、と答えた。
味が尖らないよう、抽出液がフラスコに戻り始めるまで再び優しく攪拌する。
その手元を天音は嬉しそうに眺めていた。
「上手くいったかなあ。父さんは淹れるのが上手いんだけど」
後ろの食器棚からイッタラのカップを取り出す。
個性的な絵柄のそれも母の趣味だ。
フラスコに戻ったコーヒーを丁寧にカップに移して、ソファの前の小さなテーブルに運んだ。
ソファの天音と向かい合って、ひとり掛けの椅子に座る。
「いただきます」
天音は丁寧に手を合わせて、そっとカップを手に取った。
表面を撫でるように息を吹きかけて、一口含む。
「どう?」
「美味いよ、貫。俺、あんな食いっぷりだけど、味には少しうるさいんだ」
緩やかな湯気の向こうで、天音は嬉しそうに笑った。
自分も香りを確かめながら飲んでみる。
微かな苦みと酸味が上手く調和して、いつも以上に上手くできていた。
良かった、一応俺でもおもてなしが出来た。
実はこの家に友達を呼んだのは3年ぶりなのだ。
小学時代は行き来する友達も何人かいたが、中学に入ってからは全く無くなった。
決定的に何かあったわけではないけど、周囲の人間から浮いているように感じ始めたのもこのころからだ。
仲がいいと思っていた友達は、クラスが変われば声をかけてもおざなりな返事しか返してこなくなった。
敢えて家に呼べるほどの付き合いなんてあるはずもなく、もちろん呼ばれることも無かった。
どうして自分はこんなにも人とうまく関われなかったんだろう……。
「貫?」
気が付けば、俺は黙り込んで難しい顔をしていたようだ。
「ゴメン、ちょっと考え事してた」
天音は何かを察したような表情で俺を見ていた。
だからといって何かを聞いてくるわけでもない。
ゆっくりとコーヒーを飲みながら、俺が話し出すのを待っている。
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