第13話 少女の事情

そのアパートは、リカちゃんの家からほど近く、歩いて五分ほどだった。彼女の家から近いということは、すなわち向かいにある公園に近いということ。深夜に抜け出して、一人泣く場所としては、あの公園はうってつけだった。

三階建ての小さなアパートはところどころの塗装が剥げかけていて、随分前に建てられたものだと分かる。階段の手すりを掴むと、手に錆がつく。手入れもあまりされていないのかもしれない。

メイちゃんの家は三階の突き当りにあった。彼女が無言で玄関に鍵を差し込んで開ける。抱えられたミーちゃんは今か今かと耳を立て、メイちゃんが扉を開けた瞬間、飛び出していった。僕も恐る恐るミーちゃんの後を追う。最後にメイちゃんが中に入って、鍵をかけた。

「うわあ」

思わず声が出て、慌てて口を押えた。だけど、メイちゃんは予想通りの反応だったのか、澄ました顔で靴を脱ぎ、音も立てずに廊下を歩いた。障害物をよけながら。

そう、障害物だらけだったのだ。

脱ぎ散らかした衣服。食べ終わった空のカップ麺。黒ずんだハサミや鉛筆。そこかしこにどうしてこんなものが?と問いたくなるようなものが転がっていて、歩くのは困難な状況だった。これではミーちゃんが逃げ出してしまうのも無理はない。案の定、ミーちゃんはベランダに繋がるガラスをかりかりひっかいていた。メイちゃんには懐いているようだけど、この部屋には住みたくないらしい。

「もう、ミーちゃん、カリカリしないで」

ぷりぷり怒ったメイちゃんは年相応で可愛らしい。しかし家の状態がこれではそれが不気味に思えてしまうのだから不思議だ。

ようやくリビングまでたどり着くと、そこは相も変わらずごみの山だった。どうやったらここまで散らかせるのだろう。人間でない僕でさえ、ここまでしない自信がある。

散乱したごみ袋から異臭がして、僕は鼻を押さえながらメイちゃんをこっそり見る。助けてほしい。彼女は確かにそう言った。

そして、今この状態を見れば、どういうことか分かる。彼女が泣いている理由も。深夜にこっそり抜け出しても誰にも咎められていない理由も。

片付ける人が居ない。お母さんも、お父さんも。

「僕をここに上がらせていいのか、少し不安だったんだけど」

「大丈夫でしょ?だって、誰も居ないもの」

「みたいだね」

僕は苦笑した。こういう時に使う表情として、今日覚えたばかりだ。目の前の現実に、笑うしかない。そんなとき、こういう顔をする。

メイちゃんが、どうして助けてくださいなんて言ったのか。それは彼女がここに来る道すがら、小さな声で話してくれた。

――お父さんは、もう居ないの。私が生まれた時には、もう何処かに行ってしまって、お母さん一人ぼっちだった。それで、お母さんは女手一つで私を育ててくれたの。でも……。

でも。

僕は棚の上にある写真を見つけて、手に取る。映っているのは、今よりももっと幼いメイちゃんと、線が細い女性。

髪が長くて、目元は涼しげ。薄い唇と、泣きぼくろが特徴的だった。メイちゃんの面影があるところを見ると、この人がお母さんだろう。

メイちゃんとお母さんが笑いあって、嬉しそうに映った写真。だけど、これは過去の産物。

今の現状を見れば、きっと誰もが思うだろう。

毎日帰ってこない残されたアパート。ごみだらけの部屋。偏った食事をしているであろう空箱の山。

――お母さんは、私を嫌になって、出て行った。

最低限のお金と、少しの残り香を置いて、メイちゃんのお母さんは出て行った。

お母さんはずっと働き詰めで、ちゃんとした食事を与えられず、どんどんやせ細るメイちゃん。片付けもろくにできないまま、回り続ける歯車のように働くお母さん。こんなことを、毎日繰り返す。そして、お母さんはとうとう逃げた。メイちゃんを置いて。

いわゆる育児放棄なのだと僕は思い至る。コブタ先生に人間の中で起こる問題として、以前教えてもらったのを思い出す。

いかなる理由であれ、子供を育てる義務を放棄してはいけない。それは、自分のためにも。子供のためにも。

そう教え込まれた僕は、メイちゃんを見た。彼女はベランダに出たがるミーちゃんを見つめていた。その横顔が、どこまでも切ない。

「メイちゃん」

「なあに?」

「お腹、空いたでしょ。とりあえずお見舞いに行くのは明日にして、ご飯食べよう」

「カップ麺?」

「いや、そんなものじゃなくてさ。ううんと。冷蔵庫に食材ってある?」

「ないよ。作れないもん」

「じゃあ、コンビニに買いに行こう。僕が何とかしてあげる」

本当に何とかなるのだろうか。不安になりつつも、僕は笑顔を作って、メイちゃんを安心させる事に努めた。明日のお見舞いまでには、少しでも元気になってほしい。夜にひっそりと泣きに行くことがないようにしたい。

僕は、写真をもう一度見つめて、メイちゃんを見る。

見れば見るほど似ていた。これが、親子っていうものなのだろう。

「お母さん、会ってくれるかな」

「会ってくれるよ。そうなるように、僕が頑張る」

胸を張って言い切ると、ようやくメイちゃんはくすりと笑ってくれた。良かった、少しは信頼されているみたいだ。

メイちゃんのお母さんは、二週間ほど前から入院をしているらしい。現実に疲れてこの家を捨てて逃げ込んだ果てにたどり着いたのは、病院だった。過労で倒れて、今は絶賛入院生活中。だけどそれ以上の事は分からない。何故なら、メイちゃんは病院に行くたびにお母さんに面会を拒まれているというのだ。

――会いたくないって言ってた。

悲痛な顔をして唇を噛み締めて、涙を堪えたメイちゃんは、思わず抱きしめたくなった。大丈夫だよ、だからそんな顔しないで。そう言いたかった。だけど、何も知らない僕にそんなことは言えない。それに、いきなりそんなことをしてしまったら警戒されてしまう。僕は湧き上がる感情に必死に蓋をして、平静を装っていた。

母親に拒まれて、頼る場所をなくしてしまったメイちゃん。慰めてくれるミーちゃんでさえ、この家を出たがる。塞ぎ込んでしまうのは、至極当たり前の事のように思えた。


知識も何もない僕が、料理を出来るはずがない。僕はメイちゃんとコンビニで散々悩んで、レトルトのご飯と、シーチキンの缶詰、海苔を買った。

家に帰って、それらを使い、おにぎりを作る。当然出来上がったのは不格好で、とても美味しそうとは言えない代物だった。三角にしようと思ったのに、三角でも丸でもない、歪な形。食べようとするとご飯はぽろぽろ落ちてしまうし、シーチキンは油を切るのを忘れていて、ぎとぎとしていた。それに加えて僕は食べる必要がない。だから味が分からなかった。お腹を空かせているであろうメイちゃんに、ごめんねと謝りながら全てをあげた。すると彼女はそれでも嬉しそうに食べてくれた。

「美味しいの?」

「美味しい。だって、誰かが作ってくれたご飯なんて、久しぶりだもん」

僕は茫然として、空になったレトルトのご飯の容器を見つめる。カップ麺とあまり変わらない代物。ただ具を入れて、握っただけの、安っぽい食事。

それでもメイちゃんは、酷く美味しそうに、嬉しそうに頬張る。彼女が今本当に欲していたのは、きっと食事ではなかった。

誰かの温もりだった。

幼い小学生が、二週間以上孤独に過ごして、毎夜泣き続ける理由として、それはぴったり当て嵌まる。僕はメイちゃんの頭を無意識に撫でていた。彼女は甘んじてそれを受け入れる。どうしてかこの子を守りたいと思った。どうしてだろう。僕はいつか、その答えを知る日が来るのかな。

「メイちゃん、もう寝よう。で、明日の朝お見舞い行こう」

「……一緒に寝てくれないの?」

「うん、僕は寝なくていいんだ」

「なんで?食べなくてもいいんだよね?それじゃ死んじゃうよ。寝なくていいと、ねぶそくで死んじゃうよ」

メイちゃんの声が、僕の心にすっと入り込む。遠回しにだけど心配してくれるのを感じ取る。僕は大丈夫だよ、とメイちゃんを布団の上まで移動させる。そして、メイちゃんの頭を撫でながら、怪しい手つきで寝かしつける。今寝てしまえば、そして僕がそばに居れば、この子は抜け出して公園に泣きに行くことはなくなる。

「死なないんだ、僕は。そもそも、生まれてもいないから」

布団を優しくかけて、昔話を語るように言うと、メイちゃんは可笑しそうに笑った。純粋な笑顔が、彼女の心境を現す。

「何言ってるか、わけわかんない。でも」

一緒に居てくれるんだよね。

その言葉に、もちろん頷いた。ずっととは言えない。だけど、僕は、今の僕がある限り、メイちゃんを一人にしないと誓おう。どうしようもなく、人間未満の僕が何の役に立つかもわからないけれど。それでメイちゃんの心が癒されるのなら。

僕は遠慮なくこの未完成な心をさらけ出そう。

やがて寝てしまったメイちゃんを遠目にしながら、寝られない僕は部屋の片づけをすることにした。ルールや要領が分からない僕は、ごみをまとめることしか出来ないけれど、それでもやらないよりはマシだろう。

物音を立てないようにこっそりと続ける作業は、朝方まで続いた。

メイちゃんは、公園に行かなかった。

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