第3話 コブタ先生

「先生!どうして人間は働くのですか」

「世間一般に言わせれば、社会に役立つため、はたまた生活をしていくため、お金を得るためと言うね。だけど、私から言わせれば、働くというのは人生を豊かにするためだと思うよ」

「豊かに?」

「ああ、そうだ。働けば、社会での自分の能力が発揮できるし、好きなことにも巡り合える。なおかつ誰かのために、自分のために働ければ、それはとても有意義な事だろう。もちろん、現実はそう甘くない。中には働くことで苦しみを与えられることもあるだろう。だけどね、それが人生に彩りを与えていると言えるのは確かだ」

「なるほど。では、どうしてお金はあるのですか?」

「人間の秩序を守るためだ。ふふ、君はよく質問をしてくるね」

「……ダメでしたか?」

「まさか。意欲があることはよいこと。私は大歓迎だよ」

大きな掌が、僕を撫でる。それが嬉しくて、僕はふよふよと身体を揺らした。

コブタ先生の授業は相変わらず面白い。人間の話がよく出るし、質問にはなんでも答えてくれるし、何より、彼のお腹がぽよぽよ揺れるのは見ていて楽しい。コブタ先生のお腹が、機嫌によって揺れ方が違うのは周知の事実でみんなも楽しそうだった。

「先生大好き!」

「はは、それは嬉しいね。私も君が大好きだ。いいや、まだ何も知らない、穢れのない君たちが大好きだよ」

コブタ先生は僕の言葉にそんな意味深な言葉を投げかける。穢れの知らない。

つまり、僕たちは全くの新しい魂だから?

コブタ先生の言いたいことは、たまに分からない時がある。今もそうだ。

僕たちのように知識も何もない状態に、分からないことをしばしば放ち、戸惑わせる。

そしてそれは、僕たちに考える力を与えてくれているのも事実。先生から、何か問題が出されているのかもしれないと、みんな真剣な顔をして悩んでいた。人間と違って、ただの魂である僕たちは、答えを見つけるのは何倍も苦労する。

「先生、それは先生から与えられた問題ですか?」

なんでもかんでも思った事を口に出す蛙に就職したい友人が、いの一番にそう言った。隣で僕が真剣に悩んでいるというのに、時間を急かすかのような口ぶりだった。

「おや、これはいけない。何か意味深に聞こえてしまったかね。それはすまない」

コブタ先生は、額に汗を流してすまなさそうに頭を下げた。そして、次に顔を上げた時は、いわゆる一流の教師とでも言う様に、キリッとした表情で、教室内のみんなを見渡していた。

「ここで一つ、私の生前の話をしてあげよう。もちろん、生前は人間であった私だから、他の生物の話はあまりできないけれどね、それでも物事の見方は少し知ってもらえると思う」

僕の顔を見ながらそう言った先生は、きっと僕のためだけにその話をしてくれるに違いないと確信した。僕が先生に異常に懐いているのもあるし、人間であった彼が話してためになるのは、結局のところ僕しかいないからだ。

それでも、教室内でみんな興味津々といったようにコブタ先生の話を待った。だって、みんな先生の事が大好きだもの。

僕は一番前という特等席で、先生のぽよよん、と揺れたお腹を見ながら、人間であったころの彼を想像してみる。

きっと、姿かたちは今と変わらないはずだ。

そして、生前大学とやらの教授をしていた。人間に、何かを教える立場だった。

つまり、今と何も変わらないのだろうか。

結局最低限の心と少しの知識しか植え付けられていない僕には、彼の壮大な人生というのは想像に及ばなかった。

だから、先生の生前の話は僕にとって色々と衝撃的だった。

具体的には、こんな話だ。

「私が生前教授を勤めていたのは、以前話したね。だから今でも君たちに教える立場にあると。だが、生前の私は教授になる前、大変厄介な不良だったのだ」

不良。

つまり、人間でいう素行の悪い人のこと、だったような気がする。規則を破ったり、あるいは度が過ぎると人に暴力を振るったりする人。

この、偉大で尊大で、何もかもがビッグな(もちろんお腹も)先生が不良だって?

僕には、いや、教室中が想像できずに戸惑っていた。

一体どうしたら不良がこんなよい先生に?

「私はね、幼い頃何もかもに絶望していたのだ。何をやってもつまらない、両親には相手にされない。周りはどうしてかくすんで見える。つまるところ、私は穢れていたのだ」

「穢れ?」

「ああ、心が穢れていたんだよ。それは病にも似ている。何も受け入れることが出来ず、すべてが黒く見えてしまう現象なんだ。私は当時それに罹っていてね。それはもうはちゃめちゃな人間だったさ」

これほどまでに優しくて清い先生が、そんな人だったなんてつゆ知らず、僕は唖然としていた。これが、人間における成長だというのだろうか。

そして、その穢れた心を先生はどうやって、清くしたのだろう。

僕はそれを話してくれると期待して、先生のお腹を見た。お腹は悲しげにゆらゆら揺れていた。

「そして私はとある理由により、一度自殺を図っているんだ。だけどね、そこである人物が言ったのだ。お前は何も知らないのに、そこで生きることを諦めてしまうのか。自然の恵み、食べることの素晴らしさ、文明の発展、それら全てに感動することもなく、そこで終わらせてしまうのか。ああ、なんともったいない。それでは、死んでしまっても仕方ないね、と」

「そんなことを言った人は、一体そのあとどうしたのです?」

「どうもしなかったよ。彼はそのまま立ち去り、私は茫然と突っ立っていた。彼はただ通りすがって、そんなことを言ったにすぎない。だけど、私にとってはそうじゃなかった。何せ、私は穢れた心で何もかもを知った気でいたのだ。そのうえで、もうこの世界に用はないと命を絶とうとした。だけど、私は何も知らないと言われたのだ。それがなんだか悔しくてね。穢れた心を持ったまま、もう一度世界に挑んだのさ」

誇らしげに先生は胸を張って、遠い目をしていた。その目はどことなく懐かしそうで、だからやはり、その話が信じがたくとも先生の過去であることは分かった。

「そして、私は絶望した世界をもう一度見直してみた。すると、新たな局面から発見をして、知ることの楽しさを覚えたのだ。同時に物を教えることの楽しさもね。穢れた心は完全な白にならず、それ以降も何度も過ちを犯したわけだが、それでも後悔はしなかったよ」

先生はふう、と一息つくと教室を見渡して、笑顔を向ける。その顔は、どことなく満足気だった。

「まあ、とにもかくにも私はそんな人間だったわけだ。今では想像もつかないだろう。だけどね、だからこそ穢れた心を持たない君たちが何よりまぶしく見える。悪意をほぼ持たず、真っ白である君たちにね。自殺を図ることもなく、逆に言えば感動する余地もない、君たちは可能性の芽なのだから」

「それを先生が教えることで、僕たちは成長できる……?」

「そう。芽を伸ばすことが出来る。結局のところ、私の自己満足にすぎないけれど心を成長させ、手に入れることが出来たのなら何より、ということだ」

先生の生前の話は実に興味深いものだったけれど、なんだか難しくてよく分からなかった。結局、先生は何が言いたかったのだろうか。

穢れた心を持たない僕たちには教え甲斐があるとか?

「ところで君、蛙や犬、花たちの生き物と人間の違いが何か、分るかね」

問われた僕はしばし悩み、そして、今までの話が関係しているのだろうと予想をつけて頷くと、ひとまず自分の考えを口に出してみた。

「心、です。広さとか、力とか。たぶん、穢れ具合も、違うんですよね」

「ふむ。そうだね。いや、そうかもしれない」

「どういうことですか?」

「いや、私ごときがその違いについて答えを知るわけないのだよ。だから、皆の意見を聞きたくてとりあえず聞いてみたんだ。だけど、君がそう思うならそれは正しい」

「うーん……。言っている意味が、よくわかりません」

正直に告げると先生は僅かに微笑み、優しい顔を僕から逸らした。そして、なんでもないようにみんなに向かって、こんなことを言う。

「そうだ。人間に就職するなら、真っ白なままの心ではいけないよ。多少の穢れはないと、何の面白みもない人間になってしまう。毒あってこその美しさだからね」

ううん。ますます先生の言っていることは分からなかった。

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