第59話 呪詛

「呪詛!?」


 ボリスの言葉に、全員が絶句した。侍医の頭などは完全に声を

失っている。青ざめて、茫然と王を見つめていた。


「魔族に……ですか」


 高名な学者、コルサコフの、理知的かつ平静な声が、凍りついた空気に分け入った。

 ボリスは、ただ黙って頷いた。


「なんという恐ろしい……!」

 リジアの顔は恐怖で歪んでいた。皺くちゃの手が上がり、関節の浮き出た細い枯れ枝のような指がまっすぐにエルダを指す。


「予言のとおりであろう。その娘は邪悪なる者! 災厄と苦難、そして、やがては破滅を呼ぶのだ」


 老いた占術師の背から、再び怒気と憎悪の炎が立ち上った。

「王が聞き入れてさえいれば、このようなことにはならなんだものを。だが、今からでも遅くはない。即刻、その娘を、神に捧げるのじゃ」


 ボリスの顔に、厳酷とも呼べる表情があらわれた。彼は穏やかに、しかし決然と、老女の言葉を退けた。


「父上の病の原因が呪詛であると見抜いたのはエルダだ。そなたではない。ことの根源を断定することができぬなら、みだりに解決の方法を口にするべきではない」


 コルサコフが、すばやく視線を飛ばした。

 ナボコフ大臣、侍医の頭フョードル、ペトロフ将軍。その表情は、驚愕、困惑、不動と見て取れる。

 幼いころから滅多に強い感情をあらわさず、いつ誰に対しても慈愛の深い態度を貫いてきた王子の、実に珍しい厳然とした雰囲気に、コルサコフは心の中で歎声をあげた。


 ボリス王子には、時期国王としての威風が備わっている。それは国民に憧憬の念を起こさせる、王という権力者になくてはならぬものだ。じつのところ、コルサコフは王子にそれが欠けているのではないかと憂慮していた。叛乱を許すような弱き王になるのではないかと。しかし、今の彼にはその不安を払拭させる力があった。


 リジアの頬が紅潮した。それは怒りというよりも羞恥のために起こったように見えた。


「……では、殿下。お教えください。これはどのような呪詛なのです。そして……何故、恐れ多くも陛下にかけられたのですか」


 医師の一人がリジアの前方に進みでて、静かに問うた。老女は噴火直前のような目をして睨みすえたが、彼は全く意に介さなかった。理性的な人間というものは、神秘というものに不必要な恐れを抱かない。


 ボリスの身体をつつむ厳格さが、少しだけ和らいだ。


「エルダが言うには、健康を奪い、夢を支配する呪詛だそうだ。つまり、悪夢の中に閉じこめられる」


 全員の視線が、国王に注がれた。

 イワンは全身に汗を浮かばせ、何かに耐えている。しかし、エルダが左手をのばして彼の手に触れると、眉間がわずかに緩んだ。


「呪詛をかけた者が何者かは、魔族であるという以外に判らない。だが、いずれ、この大陸を狙う者の一族だろう。そんなことは問題ではない」


 エルダの視線を避けながら言う。

 侍医の頭が目を剥いた。


「何を仰るのです、殿下。呪詛というのは、かけた者にしか解くことができないのですよ」


「それは解っている、フョードル。だからこそ、エルダが必要なんだ」


「……どういうことですかな、殿下」

 将軍の両眼に、冷然とした光が浮かんだ。


「方法は二つ。まず一つ目は、父上に呪詛をかけた魔物を探し出して捕らえ、エルダの歌で呪詛を解くよう命じることだ。しかし、これは不可能に近い」


「何故ですか」


「その魔物は、既に死んでいる可能性が高いそうだ。父上の身体からする魔物の臭気に、死臭がするらしい。それに、もし生きているとしても、探し出すのに時間がかかるだろう。そうなれば、父上の体力がもつかどうか」


 全員の咽喉が凍った。


「……いまひとつの……方法とは……?」

 警察隊長が、おそるおそる問う。

 ボリスはエルダに視線を移した。


「呪詛を破壊する」


「なんですと!?」

「馬鹿な!」

「本気ですか、殿下!」

「常軌を逸しています」


 激しい反応にも、ボリスは平然としている。


「呪詛というのは強力な邪法です。ただの魔法は、かけたものの死後に消えるが、呪詛は永遠に残る。だからこそ、その姫は声を封じていらっしゃるのでありましょう。それを、一体どのようにして……」


「エルダは、呪詛をも解く歌の訓練を受けている。勿論それは完璧に会得できたわけではないらしいが、呪詛自体に力を加えなくとも方法はあるそうだ」


 ボリスの銀髪が、さらりと揺れた。それを将軍が厳めしい目で見つめている。

 エルダが語った方法を、ボリスは咀嚼して説明した。


 支配された夢からイワンを解放する。つまり、彼を完全に目覚めさせる。そうすれば、呪いの力は途切れる。


「目覚めさせると仰いますが、どのように? まさか、その姫が歌の魔力で?」

 医師の言葉に、ナボコフが目を剥いた。


「なにを馬鹿な。そのような暴挙は、断じて許せまい。第一、お目を覚まさせることで、本当に呪詛を消すことが出来るのですか」


「悪夢を支配するものを倒せばいい。たとえ夢の中であっても、その者と戦い、勝利すれば、悪夢は消える。そうすれば父上は自分で目を覚ますだろう」

 ボリスは父親のほうを見た。


「眠りから醒めたものの夢を操ることはできない。途切れた呪いは拠り所を失う。絶対条件をなくした呪詛は存在意義をも失い、消えるほかない」


 イワンの額に右手を添えているエルダが、ボリスの視線に気づき、小さく頷く。


「……しかし、それでは……その、悪夢を支配するものとやらと、どうやって戦うのですか? そのものは、いったい何処にいるのでしょう」


 ざわざわと、喧騒が広がった。

 おびえながら言葉を発したフョードルが、己の発言によって広がった興奮に動揺し、意味もなく鼻眼鏡を外してレンズを磨きだす。

 ボリスはエルダの向かいに立ち、父親の手の上に自分のそれを重ねた。


「……陛下の夢の中……でございますね」


 コルサコフの静かな声。それに、他のものは、はっとして互いの顔を見る。ボリスは、無言で頷いた。


「殿下が、陛下の夢の中に入られる、ということですか」

「し、市長。君は自分が何を言っているのか判っているのかね。こともあろうに、殿下をそのような危険に晒し……」

「案ずるな、ナボコフ」


「とんでもない! 殿下、なりません」


 大臣は大きな腹を揺らした。


「さきほどからのお話、つまりは陛下が夢魔に襲われておいでだということでありましょう。魔法をもちいて夢を支配し、人の精神を破壊しつくす邪悪な魔物に」


「夢の世界は現実世界とは理が異なる。どのようなことが危険となるものか、判りませぬな。こちらでは怪我ですむものが、あちらでは命に関わるやもしれませぬ」


 コルサコフの淡々とした声音が、さらに状況を切迫したものに感じさせる。だが、ボリスは怯まない。


「だが、ほかに方法はない」


 黙りつづけていたペトロフ将軍が、ついに口を開いた。固く結んでいた唇をひらき、組んでいた腕をほどく。


「エルダ姫。貴女の歌で、陛下のお目覚めを誘うことは、本当に出来ぬのですかな」

 一瞬の沈黙。

「君は正気か、ペトロフ!?」

「……それが一番、早くて簡単で確実なのではないかね。しかも殿下に危険が及ぶこともない」


 冷静で、理にかなった案だった。しかし、ボリスとエルダは互いの目を見交わし、暗い表情をする。


「もちろん、それは僕も考えたが」


 深いため息をはさむ。

「無理矢理に目覚めさせたとしても、精神だけが魔物に捕らわれたままになってしまう可能性もあるようだ」


 重苦しい沈黙が一同を覆った。

 弱々しげに、ナボコフが呻く。


「それでは……どうしても」

「僕が父上の夢の中に行き、夢を操っている魔物と戦う。エルダが導いてくれる」

 誰もが逆らうほどの考えも、気力も持たなかった。王が倒れたという現実は、それほど衝撃的なことだった。


 加えてボリスの自信に満ちた言葉に、抵抗を許すような響きがなかったからだ。

 怒りに沈黙を選んだリジア以外のものは、みな、結局は王子に従った。ただ、将軍だけは、他のものとは違う顔つきでいる。


「……殿下。おひとりで行かれるおつもりですか」


 ボリスは優しげな容貌でありながら、この大陸で最強の存在だ。稲妻を操り、身軽で、剣術でも将軍に引けは取らない。もし、この敵がイワンを打ち負かすほどの魔法を用いるものでなければ、あるいは現実の世界に身をおくものであれば、王子を戦いに赴かせたりはしなかっただろう。または、死に瀕しているのがイワン王でさえなければ。


 失敗は許されない。


 必ず、イワンを悪夢にとらえている魔物に勝たなくては、呪いは王を衰弱させ、やがて命を奪うだろう。

 ボリスの顔は決意に固まっている。


「エルダが導けるのは一人だけだ。供は無理だろう。だが、案ずることはない」


 かすかに微笑が浮く。


「連れがいないわけではないからな」

 天空人たちは、一様に首をかしげた。

 しかし、ボリスはまったく意に介さない。それ以上は説明しなかった。


「万一のときは、エルダが僕を目覚めさせてくれるだろう」


 それを聞いて、ようやく全員が納得した。

 エルダの魔法は、本来、呪いをも打ち破る力を備えている。だが、本人の心がその力を憎んでいるために、魔力が最高値で発揮されることは今までになかった。よって、歌っているあいだだけに効果が限定されることや、影響を与える対象を複数同時にはもてないという制約を生んだ。

 そのことに、エルダ自身、いまだ気づいてはいない。


 彼女は自らの魔力が強いものであると思いたくないため、心の底でその可能性を否定しているのだ。


 ──私の力は無力なもの。


 だが、本当は、世界中に歌声を響かせられるほどの魔力を持っている。神の世界にまで届かせることもできるだろう。もしも彼女がそれを欲するなら。


 ボリスは眠りつづける父親の横に簡易寝台を運ばせた。初めてエルダを目にしたとき、彼女が寝かせられていたものと同じ、木製の寝台だ。ただし、今回は、それに白いマットが乗せられている。


 羽毛を詰めた柔らかなマットの上に、彼は身を横たえた。寝心地は、いつも使っている寝台と殆ど変わらない。


 父子の寝台のあいだに置かれた椅子に、エルダが腰をかけている。その白い手が、ためらいがちにボリスの左手をとった。


「……。」

 ボリスの胸の上に、つやつやとした、黒い毛のかたまりが丸くなる。


 部屋の隅に立つ者たちのほうから、緊張と不安の吐息が聞こえた。


 エルダの瞳には迷いがある。

 彼女が必死に訴えかけてくる声をボリスは遮った。


「エルダ」


 鳩のような瞳を、じっと見つめる。

「僕にすべてを任せてくれ」

 そう言って、手に力をこめる。彼女は息をのみ、呼吸を震わせた。淡い金髪が揺れて、やさしい輝きを放っている。月から発される柔らかな白い光と、よく似ている。


 『声読みの本』に浮かんだエルダの言葉が、ボリスの胸にいつまでも残っていた。


(父を殺すことができるのは、私だけです。そして、それは、無統制地帯か原始の大陸でしか行えない方法なのです。ですから、どうか、私を連れて行ってください。父が消滅すれば、陛下もお目覚めになります)


 それだけは、ボリスには承服することができなかった。絶対に。

 エルダが目を伏せる。

 さきほど飲んだ、催眠導入剤が効いてきた。フョードルの調合した薬だ。ボリスの視界が急速に翳っていく。


 エルダが震える右手でイワンの手をとった。


 そして、ボリスは闇の中に沈んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る