第57話 王の病状

 天空城には、会堂と呼ばれる場所がある。


 この国は王政ではあるが、独裁国家ではない。よって、定期的に政治的な会議が開かれる。ただ、議員は存在しない。重臣たちのほかに出席する者は、会議の内容によってそのつど公募され、民衆に推薦された者たちのうち、決められた人数が選ばれて決まるのだ。そうして選ばれた者が集まって議事する場所が、城の会堂なのである。


 その会議に必ず出席するのがナボコフ大臣と警察隊長、そして町長である。この三人は、どのような議案のときでも出席するよう義務づけられており、どうしても出ることができない場合は代理人を立てなければならなかった。


 この日の会議には、この三人と将軍のほか、珍しい顔ぶれが揃っていた。


 町で医院を任されている医者が何人か。子どもたちが通う学校の教師であり、町一番の知識人であると名高い学者。そして、占術師リジア。


 今回の議題は、国王の病に関わる一切の対策と処置についてだった。


 リジアは神の怒りであるとくりかえし主張し、自分が祈祷をするのが第一だと宣言して譲らなかった。しかし、それを医者や学者は穏やかに退けた。神がイワン王に怒る理由が無いと思われたからだ。町長と警察隊長も、おおむねそれに賛成だったが、ナボコフ大臣は揺れた。


 エルダの歓待を決定したのはイワン王であり、リジアの訴えを却けたのも、ほかならぬ彼である。はたしてそれが神の怒りに触れなかったという保証はあるのだろうか。それも、リジアの予言は月の女神セレーヌの託宣であるというのだ。


 しかし、学者は命を重んじるイワンの意見こそが神の意思に沿うものであると述べ、町長も同意を表した。警察隊長は、エルダ自身が危険な行為に及ばないかぎり、攻撃するわけにはいかないと断言した。警察というものは機先を制することに難色を示す。


 ナボコフは形勢不利であると感じた。彼は王の突然の病が人間の姫に関係していると、信じて疑わない。


 両手を顔の前で組み、ナボコフはペトロフに視線を向けた。鎧に身をつつんだ将軍は、長時間の飛行で疲れているのか、椅子に身を沈めて黙りこんでいる。その顔色は、決して良くない。王子の救出で体力を消耗しているのだろうと考えて、ナボコフは、友人に声をかけて発言を求めるのを我慢した。

 ペトロフは、国王が倒れてから、まったく休もうとしない。しかし、沈黙を守り、リジアの意見について私見を述べることを避けていた彼が、ようやく口を開こうとしたとき、会堂の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、若い侍従だった。


 全員が王の寝室に来るようにという王子の命令を伝えに来た彼は、戸惑ったような表情を隠せずにいる。だが、それは王子みずからが発した厳命だった。


「どうか、お急ぎください。殿下がお待ちですので」



 ──── † † † ────


 エルダの目にも、イワンの衰弱ぶりは明らかだった。それも相当に危険な状態だ。


 顔色は青黒く、絶えず汗を流し、意識は朦朧としており、ひどくうなされている。


 マーロウの尾が、ぴんと上がった。毛が逆立ち、広がって、まるでブラシのようである。


「マーロウ」


 ボリスが声をかけると、賢い猫は身を低くし、横たわる王を見据えた。黄金の目を細め、くいいるように見つめる。淡紅色の鼻がぴくぴくと動いた。


「……やはり、この臭いは……」


 そのとき、苦しげなうめき声に、聞きなれない言葉が紛れはじめた。


「エスタ……」


 ボリスが目をみはり、エルダは息をのむ。


「エスタ・メスタ……」


 イワンはうなされながら、呟いた。


「ファントーレン……レッザ・エ……」


 細く白い手が、さっと伸びて、国王の口をふさいだ。

「エルダ?」

 碧の瞳が凍りつき、白い顔が灰色になっている。


「ゴドリク」


 思わずもれたマーロウの呟きに、エルダが肩を震わせた。


 ──なんということ。


 エルダは確信した。国王は呪詛にかかっている。おそらくは生命力を奪われつつ、悪夢の中に閉ざされる呪詛に。


(マーロウ)


 勇敢な黒猫は、全身を呪いに覆われたイワンが横たわる、金属製らしい寝台の上に飛び乗った。王のものにしては装飾性のとぼしい寝台だった。寝具も簡素な無地の織物である。ただ、何らかの意味があるものか、敷物から枕にいたるまで、すべて暗紫色に統一されていた。


 マーロウのひげが、イワンの頬を撫でる。柔らかな肉球が汗で光る額に触れた。


「……マーロウ?」


 進み出ようとしたボリスをエルダが止めた。その手に開かれた『声読みの本』には、既に言葉が浮かんでいる。


 すばやく文字を追っていくと、ボリスの顔色が変わった。

「殿下!

 ……! エルダ姫、何故、こちらに」


 部屋の反対側に下がる天幕が揺れて、その向こうから現れた人物が、あわてふためいた声を出す。侍医の頭、フョードルだった。


「何をしておいでなのですかっ?」


 ずり落ちそうになった鼻眼鏡を左手で押さえている。


「フョードル」


 彼は恐怖におびえており、右手に抱えた薬品箱を落としそうなほど震えていた。そして、イワンの枕元に黒猫がいるのを見て、悲鳴をあげた。


「陛下! ああ、殿下、なんてことですか、こんな恐ろしい、あれは危険です。陛下が、陛下が」


 神経の細い侍医の頭が立ちすくんでわめく。その黄褐色の髪に混じる白の比率は、明らかに増えていた。


「落ちつけ、フョードル」


 寝台から飛び降りた黒い影が、部屋の隅へ駆けていく。そして、混乱しているフョードルをこれ以上刺激しないよう、座りこんだ。

 ボリスがフョードルの前に立ち、がたがたと震える両肩に手を乗せ、彼の目を見た。


「大丈夫だ。父上は病気ではないが、エルダが何とかできる」

 しかし、怯えきったフョードルはイワンを凝視したまま、裏返った声で狂ったようなことを言った。


「病気ではない? そうでしょうとも! あれは、神の警告なのですよ。城の者たちも皆、そう言っています。陛下は神託を聞いておいでなのです」


 薬品箱が揺れて、がちゃがちゃと音をたてる。

 フョードルの言葉にエルダが身を硬くした。だが、ボリスは乱れなかった。


「フョードル、皆の考えは分かった。だが、父上の健康を取りもどすのが最優先だ。将軍と、大臣たちを呼んでくれ。会堂にきている者たちも呼んでいい」


 すると、フョードルはぴたりと静まった。

「では、リジア殿に祈祷させますか」

 ボリスの眉が一度だけ、ぴくりと上がった。


「その前に、やらなければならないことがある。だが、来るというなら止めなくていい。ただ、みだりに騒ぐのは禁じる」


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