第49話 救いを求める願い

 腕の中でエルダが身じろいだ。それを感じたとたん、緊張の糸がきれ、ボリスは意識を失った。エルダと『雷光剣』を抱いたまま、再び落下していく。ゆるやかに上昇していた距離を、あっという間に落ちてしまう。


 我に返ったエルダは、ボリスの“光と闇の癒し”によって、疲労を癒されていた。


 そして、雲の中に突入する寸前。考えるまもなく、エルダは歌いだした。


「風よ、吹いておくれ。どうか吹いておくれ。私たちを浮かべて、救っておくれ」


 下から突き上げるような風が起こり、ボリスとエルダの落下を止める。ふたりは雲海に寝そべるような状態になった。細かな水滴が散っていく。エルダの首筋を、水気を帯びたしなやかな銀髪が流れた。風に吹かれて、それは彼女の首をくすぐった。しかし、エルダはそれに気づかず、夢中で歌った。


「風よ、吹いておくれ。渦をまいておくれ」


 だらりと力を抜いたボリスの背に腕をまわし、しっかりと抱きしめる。だが、その心は恐怖で満ちていた。


 ──失敗など、できない。


 これほどの危険を冒してまで助けてくれたボリスを、なんとしてでも、天空城まで送り届けなければならない。命を絶つ前に、彼に恩返しをしなくては、死んでも死にきれない。


 ──私など、どうなってもよい。だから、お願い。せめてボリスさまだけは……!


 神に向けて、エルダは切に祈った。


 ──どうか、ボリスさまだけでも、お救いください。私の力をすべて使いますから。


 祈りの最後に決意したエルダは、ボリスを助ける方法を考えはじめた。自分のもつ唯一の力である歌の魔力を、どう使えば良いのかを。

 風の渦をもっと強くすれば、落下をくいとめるだけでなく上昇することもできるだろう。けれども、不用意なことをすれば、つむじ風は竜巻になりかねない。

 乱気流でもみくちゃにされた挙句、ボリスと離れ離れになったりでもしたら、二人とも、はるか彼方に飛ばされてしまうに違いないのだ。失敗を恐れるエルダには、とてもそんな冒険はできなかった。


 エルダは渦の中心で身を硬くし、次に打つ手を必死で考えた。

 神人としてのボリスの飛行能力を、エルダが操ることは可能だろうか。しかし、それは心もとない。ウルピノンのときは、翼を羽ばたかせて飛ぶという観念があったからこそ、やすやすと操ることができた。『虹水晶』の船のときは、念じるだけで水晶自体が動いてくれることを知っていた。だが、ボリスは。


 歌の魔力を使うときは、つねに、対象物が歌ったようになる光景を想像してきたのだ。どのようにして飛翔するのか判らないボリスに、どう歌えば良いのか。身体に飛行するよう命じるのだろうか。それとも能力に?


 いくら考えても、判りそうにない。


 もし、賭けをしてボリスを飛行させるのに失敗したなら、今は命綱となっている、この風すらも失ってしまう。だが、ぐずぐずしてもいられなかった。エルダの歌の効果は、自然現象に対しては、どんなに集中しても永遠には続かないのだ。早く次の手を打たなければ、つむじ風は消えてしまうだろう。


 ──ほかに何か方法は?


 こんなところに、都合よく竜が飛んでくるとも思えない。そして、これほど寒いのは、熱を発する火球石が近くにないからだ。だとすれば、陸雲も、ひとつもないだろう。

 そう思った瞬間、叫びが聞こえた。


「……?」


 上空を見上げる。雲のきれはしが浮かぶ、そのなかに、黒い影がふたつ見えた。ひとつは大きく、もうひとつは小さい。


「──かぁーっ!」


 叫び声は、次第に大きくなる。

「殿下ぁーっ!」

 大きな影は、ウルピノンだった。そして、叫んでいるのは。


 ──将軍閣下……?


 天空城に仕える将軍、ペトロフだった。二挺の鉞を背にして、ウルピノンの速度に劣らない、すさまじい勢いで急降下してくる。

「殿下……!」

 やっと辿りついたペトロフだったが、ふたりを支える強い風の渦に遮られてしまった。強靭な力を備えた竜であるウルピノンでも、渦の外で羽ばたくしかない。


「エルダ姫……。この風は、貴女が?」


 息をのんでいるペトロフ将軍に、エルダは小さく頷いて見せた。初めて聞いた、将軍の静かな声は、思っていたよりもずっと優しい響きをしている。


「殿下はお気を失っておられるのですな?」


 もう一度、頷く。

「……わかりました……」

 ペトロフの眉間から深い縦じわが消えた。

「ウルピノン」

 名を呼ばれただけで、子竜は将軍の思惑を了解した。翼を斜めに振り、すばやく降下する。


 ウルピノンの動きを追っていた将軍の目がエルダに戻る。誰が見ても解る、信頼のまなざしだった。彼は渦の端近くに引っかかっていた『雷光剣』をひきよせて腰のベルトに収め、落ちついた語調でエルダに指示した。


「姫。渦の下にウルピノンが行きますゆえ、合図をしたらば、つむじ風をお消しなさい。よろしいか?」


 不安の片鱗も見せないペトロフ将軍に、エルダは心がやわらぎ、できるだけ大きく頷いて見せた。将軍が頷きかえす。


「私が鉞を抜いたら、それが合図です」


 春の空のような、エルダの碧の瞳がきらめく。彼女はゆるやかに頷いた。

 それを認めたペトロフは、ウルピノンへと視線を落とす。紅い竜が横風に逆らい、渦巻く風の、ボリスとエルダの真下にとどまるよう、懸命に翼を動かしていた。やがて安定したらしく、ウルピノンが顔を上げる。位置を確認した後、元気いっぱいに咆哮する。

 将軍が背後にまわしていた腕をさっと抜き、鉞を両手に構えた。


「風よ、止まっておくれ」


 美しいレチタティーヴォが命じる。渦巻いていた風が外側に向かって吹き去り、中央にあった上昇気流が消えた。支えを失い、エルダは覆いかぶさるボリスを抱きしめたまま、落下した。彼の身体の重みに「命」の重さを感じて、目を閉じる。

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