第38話 告白
マーロウは、サーシャに背を撫でさせることは許したが、それ以外は拒否した。
「……いいな、ボリスさまだけ」
5度目の呟きに、マーロウは顔を上げる。未練がましいサーシャを諭すような目つきだ。
絹のように柔らかな毛並みを撫でながら、サーシャは口を尖らせた。
「だって、どうしてぼくは行っちゃいけないの? ぼくだってエルダさまに会いたいのに」
黄金の瞳は、ふいとサーシャから外れて、短い毛で覆われたまぶたで隠されてしまう。
「ねえ、マーロウ」
黒い猫はサーシャを宥めるように、尾を振った。
「ボリスさまだけなんて、ずるいや。エルダさまのお見舞いを思いついたのは、ぼくなんだよ? ねえ、マーロウってば」
ひっきりなしに抗議するサーシャを黙殺しつつ、マーロウは先ほど、初めて空の民に言葉をかけたときのことを思いだしていた。
「マーロウ。どうした?」
驚きながらも、ボリスの声は安定していた。そして、マーロウが自分に用があってきたということに気がついていた。それは、いたく気にいった。
「マーロウ?」
「……殿下。わたしの主をあの部屋から連れ出してもらえませんか」
「なんだって?」
マーロウは視線を飛ばし、サーシャの姿を探した。そのとき、この少年は花を集めるのに夢中になっていた。当分、マーロウの存在に気づきそうもない。それを見て、彼女は話を続けた。
「これ以上、あの部屋に閉じこもっていては、わたしの主は身体を害してしまうでしょう」
マーロウは、そうとしか、説明する気がなかった。サーシャの姉を批判的に言うのは抵抗があったし、エルダの心を沈ませているのは、侍女だけの所為ではないからだ。
「……どういうことか話してくれ」
真剣みを帯びて、密談するようにひそめた低い声に促され、ひげがぴくりと上がる。
「あれでは、ここに来る前とたいして変わっていないからです」
ボリスがため息を押し殺したのを、マーロウは見逃さなかった。
「まるで幽閉じみているのは僕も感じている。だが、仕方がないのだ。この国の者と彼女とを同等に護るには、いまはああするしかない」
「処遇を変えてほしいと申しているのではありません。たとえば、ほんのひとときでも、部屋から連れ出していただければ良いのです」
「それは彼女の希望か?」
「希望ではなく、願望です。
我が主は、自らを戒めることから少しでも気をそらす必要があるのです。いまのまま、御身を縛りつけるだけの日々を過ごすようなことは避けたい。たとえ笑い声をあげられなくとも、わたしはあの方に、少しでも、昔のように笑っていただきたいのですから」
ボリスは沈黙した。
しばらくのあいだ、彼の返答を待っていたマーロウは、まっすぐに彼を見上げる。
「──あなたも恐れておいでですか。我が主のことを」
「エルダ姫を? まさか」
整った眉が跳ねあがる。
「では、何故、あなたがたは我が主を足止めなさったのです。危険な存在を捕えたかったからではないのですか」
「……エルダ姫もそう思っているのか」
マーロウはそっぽを向いた。
ほかに、どう思えというのか。
すべてを打ち明けたのは、空の民に安全を保証したかったからだ。そして、自警するよう促そうともした。しかし、それによって、エルダは得たばかりの自由を失った。あの、ばかばかしい令書。あれはエルダの権利をことごとく奪っている。
「彼女も、自分のことを囚われの身だと?」
「あの警備兵が、子竜の背に乗っていた我が主のことを隠していたのは、国民たちを恐怖と混乱から守るためだと言ったのでしょう。
それも無理もないことだと、我が主は仰せでした。
人間であるということだけでも、ここではそれほど騒がれる要因です。そのうえ、忌まわしい呪いと恐るべき魔力を抱える身では……」
「彼らが姫のことを脅威だと思うことはどうにもできない。だが、父と私は姫を助けたいと思ったのだ」
「ええ、それはもちろん感謝していますとも。
例の
けれど、我が主は、本当はこの大陸へ来る気も、留まる気もなかったのです。今も立ち去ることを考えています。永久に」
ボリスの顔色が変わった。
「我が主は仰いました。ここに長居はできない、と。
滅びの使い、魔王の申し子と呼ばれても、反論はできない。しかし、この国を滅ぼす者となるわけにはいかないと」
「エルダさまは滅びの使いなんかじゃない!」
あどけなくも、力強い声が叫んだ。
いつのまにかサーシャが話を聞いていたのだ。
「魔王の申し子なんかじゃない! エルダさまが、この国を滅ぼしたりするもんかっ」
マーロウとボリスの視線を受けながら、ゆるぎない姿勢で彼は断じた。その様子は、いつになく勇ましい。
いきなり大声を出したせいで息を切らしているサーシャの肩に、ボリスが手を置いた。
「マーロウ。君は、本当は僕に何を望んでいる?」
そのとき初めて、マーロウは躊躇した。
「……エルダさまをここにおいていただきたいと望んでおります。
このまま、国王陛下と殿下のご庇護をいただければ、我が主は安全でございましょう。けれども、いまのように日がな一日、部屋に閉じこもっていては、心が光を失ってしまいます。
この地にたどりつく以前、我が主は、これから為すことは世界を護ることであり、己だけにできる使命だと信じておりました。それがたったひとつ、我が主に残された存在価値であったのです。それなのに、その使命はもう、果たすことができません」
無統制地帯か、原始の大陸に行かないかぎり、その使命を果たすのは無理なのだ。
ボリスは目をかたく閉じてマーロウが語るのを聞いている。眉間によったしわが、彼が何かに耐えていることを表している。しかし、サーシャにはそれが何かは分からなかった。
話の意味を理解しかねたサーシャが説明を求めてボリスを見上げたが、彼がひどく険しい表情でいるのを見ると瞠目し、息をのんだ。
身じろぎもせず、マーロウが続ける。
「使命を果たすということだけが、これまで我が主の心を支えてきたのです。それがなくなったいま、己が身のおぞましさを慰めるものは、何もありません。そんな状態で閉じこもっていれば心身がもたないでしょう。
ですから、部屋から連れ出してくださらないかと、ご相談申し上げております。もし、それが無理であるのならば、せめてできるかぎり我が主のお傍にいらして、お気持ちを和らげていただきたいのです」
──どうか、私を遠ざけないで。
初めて言葉を交わしたとき、エルダはボリスに、そう訴えかけていた。エルダにとって拒絶の反応を示さない人物が現れることは、まずありえないことなのだ。
「殿下は、我が主が待ち望みながらも諦めておられた、たった一人のお方だと思われます」
マーロウが告げると、ボリスは目を開けた。
そして、彼はエルダのもとへ飛びたった。
マーロウは、ボリスがどういうつもりでエルダに会いに行くのか、あえて聞かなかった。それで良かったのだろうと思う。
マーロウは既に過度なほどエルダに対して踏み入ってしまっている。できることなら、これ以上の干渉は控えたかった。
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