第39話 紺青色の小鳥
茫然としたままのエルダを背負ったボリスは、温室の上を通過して城壁を越えた。
少しでも彼女に自由を感じてもらうため、そして、城内の誰にも見つからないために、森の中に降りる。そこでようやく、エルダは我に返ったようだった。
ボリスの背から降りて向きあうと、彼女のマントから紅い光が漏れた。
(王太子さま、どのようなご用かは存じませんが、ご従者もなしに私をお連れになってはいけません。それに、城外に出る許可はいただけたのでしょうか?)
ボリスは微笑んだ。
それを見て、エルダの表情が困惑そのものになる。
「心配は要らない。マーロウには、すべてがお見通しのようだから、サーシャとエリンが何とかしてくれるだろう。それに、その『闇のマント』を羽織っているかぎり、君の姿は僕以外には見えない。さあ、おいで」
(どこへ行かれますの?)
「昼間でも星が見えるところだ」
ボリスが手をのばし、『声読みの本』に乗せていたエルダの手をとった。青白かったエルダの頬に赤みが戻る。
シダの茂る森の中、優しい光に包まれて、ふたりは歩いた。
ボリスの歩幅についていくのにエルダは相当な体力を消耗したはずだったが、不思議と疲労を感じはしなかった。彼の手から、あたたかく、心地よい体温がつたわってくる。彼女は不安を忘れ、いままでにない強い力が自分のなかに生まれるのを感じた。
さわやかな草の香りが風に乗って漂う。
その風と一緒に、紺青色の小さな鳥が舞いおりてきた。愛らしい声で鳴きながら、ボリスとエルダの周囲を飛びまわる。おなかの白い羽根が、ひらひらと舞った。
まるで夢の中にでもいるような気がして、エルダは青い小鳥を見上げた。小鳥は羽ばたき、ボリスの頭上から降下して、漆黒のルードの肩に降りたつ。
「ひさしぶりだな。元気だったか?
──それは良かった。最近は城に来ないだろう。だから少し心配していたが、どうやら杞憂だったな」
ボリスの言葉に応えるかのように、小鳥はさえずる。エルダには、どんな答えなのかはわからない。しかし、その愛らしいさえずりは、神人であるボリスには言葉として届いている。
「そうか! おめでとう。近いうち、きっと会いに行こう。ほかの皆にもよろしく伝えてくれ」
華やいだ声で約束したボリスの肩から飛びたち、小鳥は上空へと羽ばたいた。明るいさえずりと軽やかな羽音とともに、紺青と白の羽根が降ってくる。
さえずりが遠ざかり、代わりに水の流れる音が聞こえてきた。
風と水、葉擦れのささやく声がエルダを覆う。と思った瞬間、すべての音が遮断され、白い羽毛の舞い降りる光景に父の幻惑を思いだし、ふっと意識が遠くなりそうになった。
「エルダ姫。もうすぐ着くが、疲れてはいないか?」
ふり向いたボリスに、慌てて頷く。本当に、信じられないほど元気だった。ベッドで横になっていたときは、あれほど気分が悪かったというのに。
ただ、父の呼び声が甦る。
エルダは水音にのみ、耳を集中させた。
水音は次第に大きくなり、やがてごうごうという響きに変わった。木々から抜けた川の流れの向こうに、高さはないけれども太い、見事な滝がある。白い水の柱だ。それは岩をたたき、空を切り裂く。
「こっちだ」
ボリスに手を引かれ、川べりを歩いていく。石や岩を避け、日差しを浴びて滝のすぐそばまで来ると、轟音に身体が震えた。
さらに近づくと、滝の裏には洞穴があった。
入口は屈まなければ通れないほどだったが、中は、強靭な体躯の男でも3人は並んで通れるほど広い。そして、ひんやりと涼しく、とても静かだった。
冷たい岩肌には水滴が浮かんでいる。
苔むした岩の壁にしたたる水の粒は、かすかに入る外の光を受けて輝く。
「ここは、『星の洞窟』という」
心地よく響く、気品に満ちたボリスの声。
「1年のうち5ヵ月の間だけ、ここで『虹水晶』が採掘されている。今年はまだその時期ではないが、あとひとつきほどしたら、採掘の工夫たちが入るだろう」
エルダは首を傾げた。
ボリスの言うとおりであれば、この岩窟内には誰もいないはずだ。しかし、奥のほうに光の粒がいくつか見える。ひとの持ちこんだ灯りでないのなら、いったいなんだというのだろう。
その疑問を感じとったらしいボリスがエルダの手をしっかり握る。その体温と力強さが、「安心しろ」と言っていた。エルダの心から、あらゆる不安と恐れが消えていく。
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