第25話 エルダの目的地

 エルダの肩が、ボリスの言葉に初めてびくりと揺れた。


「それもそうですな。そんな危険なお父上のもとから逃げて、一体どこへ行かれるおつもりで?」


 高圧的なペトロフ将軍の問いに、エルダの表情に怯えが浮かぶ。彼女は逡巡を隠そうと額のほうに手を上げたが、途中で止め、すぐにまた本の上に翳した。

 将軍に咎めの視線をおくってから、ボリスはエルダの指先が綴る文字を読んでいく。


(正直に申しあげますと、どこへというあてはなかったのです。

 妖精族に頼るには話を通すのに時間がかかりますし、精霊族は頼るべきではないでしょう。イクァール共和国やシルゴール王国、オルゴロス帝国は論外です。だからといってドルゴランの竜族に助けを求めるのは、父に宣戦布告して、世界戦争に持ちこむも同然……。ですから、原始の大陸か、無統制地帯にでも行くべきと思っておりました)


「原子の大陸か無統制地帯?」


 サーシャがのけぞった。


 少年が転ばないよう手をさしのべて、ボリスはエルダの言葉を頭の中でくりかえす。


 たしかに、妖精王の治めるゲニウスは人間が領内に入ることを禁じているし、隣国であるダークロー連邦共和国の妖精たちは、国家体制がややこしいうえに排他的だ。共存する人間たちとは手を取りあっているものの、他国の人間と深く関わることは避けている。


 精霊王が統治しているディアガードはというと、そもそも人間は精霊には会うことすらできない。精霊は肉体を持っていないからだ。

 人間の目には、精霊の村や街は大自然にしか見えないのである。

 精霊の側からは人間を認知できるが、これでは相互の意思の伝達も図れない。精霊と接触できるのは、空の民と竜族、神族だけであるとされている。


 そして人間の支配する国家は魔法に対してあまりにも無力だ。

 妖精には妖力が、精霊には幻力があり、竜にも強大な力がある。それらは魔法に対抗することができるが、人間には、それらに匹敵するような超能力がない。霊力と呼ばれるものはあるが、それはただ存在するだけの非力なもので、はじめから勝負にならないのだ。


 頼みの竜族は、竜王が人間とも言葉を交わせるし、全身が武器のようなもので、火炎や電気などを生みだすこともできるため、もしも味方となれば心強いだろう。

 だが、彼らは能動的で正義心に篤い。敵とみなした存在は即座に排除、という結論しか選ばないのだ。

 傭兵としてなら最高の種族だが、用心棒には向かない。


 しかし、無統制地帯には魔物がはびこっているし、原始の大陸には本能のみで生きている、知性の欠片もない生物がのさばっている。どちらも大変に危険な場所だ。


「なんで、そんな場所に?」


 エルダの白いドレスを両手でしっかり握り、“どこにも生かせない”という顔貌でサーシャが尋ねる。

 幼い彼には、まだ地上の種族同士に対する深い知識がないのだ。それでも、地上の危険な地域については知っている。


 主から離れて自分のスカートをひしとつかんだサーシャを、エルダは愛おしげに見つめた。


 おそろしい塔の部屋の中で下した決断は、まだ半分ほどしか実行に移していない。けれどもエルダは、自分の下した判断は正しかったと感じた。少なくとも、まだ自分のことを大切に思ってくれる存在に会うことはできた。それは、生きているだけで他者を危険にさらすようになってしまった彼女の絶望を、少なからず浅くした。


 エルダはサーシャをまっすぐ見て、『声読みの本』を彼に向けた。

 本を見られない位置に立つ者は、空の民に備わっている力で、無防備なほどに開かれたエルダの心を直接聞いた。


(そのほかの場所にいたら、世界中が大変なことになってしまうと、そう思ったから……。いずれは父に、この力を利用されたでしょう。世界の理を蹂躙するために。だから、どのようなことをしてでも、そうされないようにしなくてはいけないの)


 あどけない少年と、細やかな神経に欠ける軍人の2人を除いた全員が、エルダの言葉からある決意を読みとって、互いの目を見かわす。

 フョードルの両目の奥に期待のようなものが光ったのを見て、ボリスは彼を、部屋から追い出してやろうかと半ば本気で思った。


 青いローブを揺らして、イワンが立ち上がる。


「……話は分かった。だが、今は疲れておるだろう、エルダ姫。疲れが癒えるまで、この城で休んでいきなさい。みなで歓待しよう」

「陛下⁉」

 悲鳴と怒号まじりの声をイワンは黙殺した。

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