第26話 イワン王の英断

「父君に見つかることならば、心配せずとも良い。この大陸は神による結界で護られている。邪悪な魔力の持主がいくら魔法を使おうとも、そなたの姿はおろか、気配さえもつかめぬであろう。安心して、ゆるりと休息をとられよ」


「父上……」


 2人の重臣が目を剥いているのも意に介さない剛毅な笑顔を見て、ボリスは心の底から父に敬意を持った。


 しかし、エルダは手放しに喜べなかった。

 なんといっても自分は人間なのだ。そのうえ危険な呪いを背負い、怪しげな力も持っている。


(ですが、陛下。私は──)


 急いで新しいページを開いたエルダがまだほんの一行もあらわさないうちに、イワンの温かくて逞しい右手に、指を止められてしまった。


 イワンは、思いがけないことに気が動転して身を硬くしているエルダの両眼を見つめ、いかにも城主らしい、自信に満ちた声音で語りはじめた。


「確かに、そなたはいろいろと難儀を抱えているようだ。城の者たちの何人かは、今はそなたを恐れるであろう。

 だが、エルダ姫。

 どこにいようと、そなたはそなただ。

 呪いや魔力は、そなたを普通の人間ではなくしてしまったかもしれぬが、それはそなたの一部でしかない。

 それに、この後、どこに行くにせよ、あの子竜が健康を取り戻すまではそなたが傍にいなくてはならぬ。そうであろう?」


 エルダの左の瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。淡い碧の水晶が転がり落ちたかのような、不思議な光景だった。

 しかし、彼女は一滴しか涙を流さなかった。

 それ以上、泣いてしまえば、声を上げてしまうともかぎらない。そうなれば、呪いにより、いずこかの地に災いが起き、多くの命が失われるだろう。


 エルダは本を床に落とした。


 王に敬礼し、それから両手で顔を覆う。


「サーシャ。南の貴賓室の準備をするよう、エリンに使いを頼む」

 国王じきじきの指示に、サーシャは顔を輝かせた。

「かしこまりましてございます」


 身をかがめて『声読みの本』を拾い上げ、ボリスはエルダの前に立った。

 気配を感じたエルダが両手を下ろす。


「天空城にようこそ、エルダ姫」


 青白い頬に薄紅色が広がり、碧の瞳に光が煌く。

 それは、見る者を圧倒するほどに、汚れのない無防備な笑顔だった。

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