フィンランド人とトナカイの微妙な関係

 フィンランドと聞いたら、みなさんは何を思い浮かべるだろう?

 オーロラ?

 白夜?

 サンタクロース?

 そう、フィンランドはサンタクロースの本拠地でもある。

 毎冬、サンタクロースはフィンランドの北の果て、ラップランドを出発してわずか三十時間程度(時差の関係で、二十四時間よりは猶予がある)で地球を一周し、全世界二十億人のキリスト教圏の子供たちにいろいろな施しをしてまわる。

 途中、アメリカでは用意されている牛乳とクッキーを各戸で食べなければならないし、与えられた時間は限られている。煙突がないご家庭も増えているし、日本ではセキュリティシステムも無力化しなければならない。

 これを超人と言わずして何を超人と言おう。スーパーマンよりもはるかにスケールがでかい。なにしろ、少なく見積もっても五千万世帯以上を三十時間程度で回るのだ。もっぱら日本でしか活動していないウルトラマン一家や、恋人がなによりも優先されるアメコミのヒーロー達よりもはるかに偉い。

 ……話がズレた。

 その超人を世界中に運ぶのが、ヘッドライト代わりの赤鼻ルドルフを筆頭にダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、コメット、キューピッド、ドナー、ブリッツェンが引く九頭立てのトナカイの橇だ。

 サンタクロースも超人なら、この橇も常軌を逸している。仮に軽めに見積もっておもちゃ一つが五百グラムであると想定しても、この橇のペイロード(積載量)は二千五百万キロ、すなわち二万五千トン、これはアメリカ軍が誇る世界最大級の輸送機、C―5ギャラクシーのペイロード三百四十九トンをはるかに超える。

 ……やめよう。話がズレる。

 とにかく、フィンランドにはトナカイが多い。

 それが言いたかった。

 実際、トナカイ牧場もある。

 昔は、おそらくトナカイは農業のための重要な家畜だったと思われる。だが、今はトラクター全盛の時代、したがってトナカイ牧場は観光、そして食用だ。

 そう、フィンランドではトナカイを食べるのだ。

 それも、ごく普通に。

 もちろん、牛肉や豚肉、鶏肉も今では簡単に入手可能だ。

 実際、レストランに行けばビーフステーキが食べられるし、タンペレやオウルといった街には必ずバッファローウィング(辛いソースで味付けされた手羽先のフライドチキン)のお店がある。魚も食べるし、和食レストランすらタンペレにはある。

 それなのに、フィンランドではなぜかいまだにトナカイも食べるのだ。


+ + +


 その日は僕が務めていたフィンランド系の携帯電話会社の大きな会議だった。

 会場はなぜかヘルシンキ空港の隣のホテル、忙しいエクゼクティブ達は空港から本社に行く時間すら煩わしいということなのだろう。

 午前の部が終わって、さあランチということになり、全員でビュッフェに移動した。

 どうやら今日はシチューのようだ。

 右から回るテーブルには保温されたトレイが並び、そこには付け合わせの野菜やマッシュポテト、サラダ、それにシチューの入った大きな鍋が置かれていた。

 列に並び、前の人と同じように大皿の上にどかっとマッシュポテトを乗せる。

 フィンランドのシチューの食べ方は独特だ。

 皿の中央に山盛りにマッシュポテトを盛り、この中心をカルデラ火山のようにへこませ、そこにシチューを注ぐのだ。

 ランチタイムは親睦を深める時間でもある。

 会議中は議題以外の話ができないので、雑談はランチタイムに集中する。

 大鍋の中のシチューは茶色で、そこに一センチ角程度の立方体に刻まれた何かの肉が浮かんでいた。

「このシチューは、なに?」

 僕は前に並んでいたヴィルピに尋ねてみた。

「これはね、トナカイよ。トナカイのシチューはフィンランドの伝統料理なの。この赤いジャムみたいなものを添えて食べるとおいしいわよ」

「ト、トナカイ?」

 トナカイシチューが初めてだった僕は思わずヴィルピに聞き返した。

「そ、トナカイ。サンタの橇を引いているトナカイよ」

「トナ、喰っちゃうの?」

「ほかに食べるものがなかったのかしらね。トナカイは結構ポピュラーな食材なのよ」

 赤いジャム状のものはどうやらコケモモか何かのジャムのようだった。

 一すくい皿に取り、なめてみる。

 とても、甘い。

 欧米では肉に甘いソースを合わせることがよくあるが、シチューの付け合わせにジャムというのは初めて見た。

 その、トナカイのシチューは香りはとてもおいしそうだった。

 かすかに香辛料が香り、においだけはビーフシチューと変わらない。

 ええい、ままよ。

 僕はトナカイのシチューをジャガイモのカルデラに注ぐと、隣に蒸したブロッコリーとニンジンのグラッセ、それにマッシュルームを添えた。

 赤いジャムも忘れない。カルデラの角に一山盛り付ける。

「そうそう、そういう感じ」

 僕が盛り付けるのを見ていたヴィルピが褒めてくれる。

「ダムが決壊しないように気を付けながら食べるのよ」


 僕は席に顔なじみのユッシを見つけると、隣に座った。

 彼はすでにつまらなそうにシチューを食べている。

「くだらないよ、この会議」

 彼は僕の姿を認めるといきなり愚痴った。

「開発停止か継続かって、やらないって解はないじゃないか。とっととやるに決めて解散しようぜ。仕事が山積みなんだ」

「それを俺に言われてもなあ」

「ま、お前も被害者か。俺は車で二時間だけど、お前は東京から飛んできてるんだもんな。しかも会場がこんなところだから観光もできやしないか」

 確かに、今回の僕の旅程に空港から他の拠点への移動は含まれていない。

 空港そばのこのホテルに宿泊し、毎朝一階のボールルームに集まって三日間会議をしたのち、そのまま東京にとんぼ返りだ。

 つまらんと言えばつまらんのだが、秋口の寒いフィンランドを回る気にもならず、まためぼしいところはほとんど見つくしていたのでさほど惜しいとは思わなかった。

「まあ、それはいいよ。ところでフィンランドではみんなトナカイ食べるの?」

「まあ、伝統料理だからな。結構食べる」

 シチューをフォークで器用にすくいながらユッシが教えてくれた。

「まあ、郷土料理みたいなものかな。東京で食べるテイショクみたいなもんだ」

「へえ」

 ユッシに倣って、フォークでマッシュポテトとトナカイシチューをすくう。

 だが、口に含んだ瞬間、言いようのない違和感に襲われた。

 とんでもなく獣臭い。

 これは、ひょっとしたら朝に食べる黒いソーセージよりも獣臭いかも知れない。

 味は、正直悪くない。だが、それはソースのなせる業だ。

 トナカイのシチューには、ジビエやら桜鍋やらをはるかに凌駕した独特の獣臭さがあった。

「ま、あんまり外国人の口にあうものではないかも知れんな」

 僕の表情を見て、ユッシが笑う。

「そのジャムを付けて食べるといい。そうすると意外とうまいぞ……すぐに慣れる」

 確かに、僕たちもフィンランド人が日本に出張に来た際にはかなり無茶なものを食べさせていた。

 納豆はもとより、ウニ、タコ、ホタルイカの沖漬け、あるいはホヤ。

 これは、仕返しなのか?

 いやいや、郷土料理だと言っていたじゃないか。そんな訳はない。

 妙な考えを打ち消し、もう一すくい、口に運ぶ。

 トナカイの肉質はとても固くて、一噛みで噛み千切ることはできなかった。

 そうやって咀嚼しているうちに、口中に獣臭い香りが広がる。

 僕の脳裏に、つぶらなトナカイの瞳や長いまつ毛、産毛におおわれた角が次々と蘇る。

 僕の脳が、これを食べ物として認識していない証拠だ。

 想像してみてほしい。仮にあなたが犬鍋や猫鍋を食べなければならなくなった時のことを。

 おそらくは自宅のペットや街行く飼い犬のことが思い出されて、嚥下する事はおろか、箸をつけることすら憚られるだろう。

 それと、同じだ。

 だが、これ以外に食べ物はない。サラダだけで午後を乗り切れるとはとても思えない。

 僕はなんとか完食すると、最後に残ったブロッコリーとマッシュルームで口直しした。

「意外とイケるだろう?」

 ユッシがにやにや笑っている。

「まあ、これはエクストリームコースかも知れんな、外国人には。でもよく食べるから慣れておいた方がいいぞ」


 幸いなことに翌日の昼食はサーモンシチュー、最終日は半ドンだったので空港でビーフステーキを食べてそのまま日本に帰ることができた。

 会議の結果はGO、ユッシのいう通り、やる以外にはないとようやく全員納得したようだ。

 翌年、開発完了の会議の後、僕はインテグレーションマネージャだったティモとタンペレのレストランを訪れていた。

 ここはビールレストランだ。ここならトナカイ以外の選択肢がある。

 僕はいつものようにビーフステーキを頼み、ティモもなにやらウェイトレスと相談したのちに自分の分をオーダーした。

「キッピス(乾杯)」

 タンペレのマイクロブリューワリーのビールはおいしかった。

 フィンランドは不思議な国で、ビールにも等級がある。これはアルコール度数を示しているのだが、ここのビールは等級で言ったらIII相当、日本のビールとさして度数は変わらない。

 ふとトナカイシチューのことを思い出し、僕はティモに尋ねてみた。

「そういえばさ、トナカイってよく食べるの? ステーキとかも?」

「まあ、食べる人もいるね」

 ビールを飲みながらティモが答える。

「でも、僕はあまり好きじゃない。くさいじゃん、トナカイ」

 良かった。フィンランド人でもあれは臭いんだ。

「あれはさ、おばあちゃんの味だよ。伝統料理だから食べるけどね、嫌いな人もいるよ」

「そうなんだ」

 タンペレの和食料理店のオタク趣味(その店の店主は日本に留学している最中に日本のアニメにヤラれたとかで、店中に日本のアニメのポスターをベタベタと貼っていた。しかも地下には『お茶の間』と日本語で書かれた謎の部屋があり、さらにはフィンランドのコミケットのようなマニアのお集りの主催者でもあるようで、明らかに常軌を逸していた)やらスーパーマーケットの和食食材の品ぞろえやらのくだらない話をしながらビールを傾けていると、やがて僕らのオーダーが運ばれてきた。

 僕のステーキは想定通り、外が真っ黒で中が真っ赤のミディアムレアに焼き上げられていた。マッシュポテトの山が添えられていたが、それも想定通り。

 そして、ティモの皿には小山のようにマッシュポテトが盛られ、その上に謎のグレーの物体が乗せられていた。

 楕円形で、少し扁平。

 見たことのない食べ物だ。

「ティモ、君は何を頼んだの?」

「豚のレバーのステーキだよ。この店はこれがうまい」

 フィンランド人の味覚は、やっぱり日本人とは少しだけ、違う。


+ + +


 ところで、フィンランドは食べ物も少々変わっているが、パンもなかなか個性的だ。ふわっとしたパンは少なく、みんながメインに食べているパンはライ麦で作られた、円盤状の鍋敷きみたいな薄いパン、ルイスレイパだ。これを器用に上下2枚にスライスして、いろいろなものを挟んで食べる。

 北欧のクネッケにも似ているが、それよりは柔らかい。しかし、日本の食パンよりははるかに固い。円盤状のパンの耳を食べている感じだ。

 だが、これがなかなか癖になるのだ。

 酸味のあるこの薄いパンを噛みしめているとだんだんに小麦の味がしてきて、一緒に混ぜられているスパイスの香りも相まってなんとも言えない芳香が鼻をくすぐる。

 書いている今も食べたくなってきた。

 しかし、さすがにこれを自分で焼くのはかなりハードルが高い。

 興味がある向きには、一度『フィンランド パン 販売』で検索してみて欲しい。

 都内だったら東京ドームのムーミンカフェでも手に入るはずだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る