9 病室
「やっと気がついたか」
京子がうっすら目を開けると、そんな呆れたような声が耳に入った。
反射的に声がした右方向を見た。友部が声と同じ表情をして自分を見ていた。
とっさに起き上がろうとしたとたん、左腕に激痛が走った。
「そのまま寝てろ。もう少しでちぎれるとこだったんだから」
そっけなく友部は言った。
「ここは……?」
夢見るようにそう問うと、友部はいかにも面倒くさそうに答えた。
「病院。あれからあんた、丸半日寝てたんだ。あんたのおふくろさんは、今、医者と話してる。言っとくけど、その怪我は俺らの責任じゃないぜ。俺はちゃんと、あの輪から決して出ないようにって言った」
京子は個室のベッドに寝かされていて、友部はその横に椅子を置いて座っていた。窓にあるロールカーテンは下げられていて、真昼の強い日差しをやわらげている。
「あ、あの……あれからいったいどうなったんですか? あの妖魔は……それに、北山さんは?」
あわてて京子は訊ねた。友部と俊太郎が妖魔相手に逃げ回っていたところまでは覚えているが、そこから先はあやふやだ。どうやら途中で失神してしまったらしい。
友部はちらりと京子を見やってから、相変わらず気のない様子で答えた。
「もちろん妖魔は始末したよ。それが俺らの仕事だからな。『妖魔課』のDNA鑑定の結果、やっぱりあの妖魔が〝犯人〟だった。俊太はもうこの町を出たよ。あいつ、あんたが目を覚ますまでそばにいろって俺に言ったんだ。こっちはいい迷惑だよ」
「そう――ですか……」
せめて自分が目を覚ますまで待ってくれてもいいのにと、京子は内心がっかりした。友部はともかく、俊太郎は礼儀正しい律儀な人間だと思っていたのに。
「あいつ、あんたと顔合わせにくかったんだよ」
そんな京子の感情を読みとったか、友部は初めてむすっとした顔を崩して苦笑した。俊太郎のことを話すとき、いつも彼は優しくなる。
「薄情なわけじゃない。その証拠に、あんたに見舞金おいてったぜ。入院費払って釣りがくる。馬鹿だねー、あいつ。ま、そういうとこがまたいいんだけどさ」
「じゃあ……やっぱり、あの妖魔は……」
父だったのだ。妖魔に真っ先に食われたと言われた、父自身だったのだ。
「あんたは頭がいいから、俺がとやかく言わなくても、全部自分でわかってるだろう」
それは、友部なりの優しさだったのかもしれない。
彼は自分の口からは、あの妖魔の正体を告げなかった。
「一つだけ、教えてください」
悲しみよりも、なぜか言いようのない怒りがこみあげてきて、京子の口調は友部を責めるかのようにきつくなった。
「どうして、人間が突然、妖魔になったりするんですか?」
「さあね」
すげなく友部は答えた。
「誰にもそのわけはわからない。いつ誰が妖魔になっちまうかもわからない。あえて言うなら時代かな。戦争のかわりに、妖魔が人間の数を減らしてる」
目を細め、うっすらと笑う友部に、京子は心の底からぞっとした。やはり友部は怖い。彼は本当に金のためだけに、妖魔ハンターをしているような気がする。決して人間のためではない。
「んじゃ、俺もそろそろお
京子の怯えた顔をしばらく面白そうに眺めてから、友部は椅子から立ち上がった。
「いろいろ……ご迷惑をおかけしました。どうもありがとうございます。北山さんにもよろしくお伝えください」
それでも、優等生的に京子は礼を言った。それとこれとでは話は別だ。
「はいはい、それはもう。次の仕事も一緒だから」
友部はうるさそうに片手を振って、京子に背を向けた。
「え? そうなんですか?」
「お嬢さん」
何に触発されたのか、突然、友部は振り返り、悪戯っぽく笑った。
「偶然とは、いくらでも作り出せるものなんですよ」
その一言で、京子はすべてを悟った。でも、そういう人間がいることは、ひどくうらやましいことのような気もした。
「また、会えますか?」
「雇われればね。でも、俺たちゃ高いよ」
「もう、北山さんは込みなんですね」
「当然だ。地獄の底まで一緒だぜ」
親指を立てて友部は笑い、ドアの取っ手に手をかけた。
――行ってしまう。
「友部さん」
「うん?」
肩ごしに、友部はベッドの中の京子を見た。京子はわざとにこやかに言った。
「〝妖魔ハンター〟より、〝妖魔使い〟のほうが似合いますね」
「お嬢さん」
動揺した様子は微塵も見せず、友部は京子以上ににっこりと微笑んだ。
「沈黙は、金だよ」
「そうですね」
今度は怯えたりせず、京子は悠然と答えた。
たぶん、自分はもう二度と友部に会うことはないだろう。だから、これは彼に対する、最初で最後のささやかな報復。
「さよなら」
甘いものと苦いものと――万感の思いをこめて京子は言った。
友部はそれを、その本性を知っていても、なおうっとりしてしまうような極上の笑顔で受け止めた。
「さよなら」
ドアが閉まった。
我知らず、京子は深い溜め息をついた。なぜだろうと思った。だが、自分の気持ちを見つめる前に、またドアが開いて誰かが入ってきた。
「京子? 気がついた?」
「お母さん……」
母だった。一瞬、友部がまた戻ってきたのかと思った。おそらく、廊下で友部と会ったのだろう。父が死んで、少しやつれたような母――
母の顔を見て、京子は改めて父を思い出した。そして、父は妖魔となって多くの人を食い殺し、昨夜、本当にこの世からいなくなってしまったことをひしひしと感じた。
あの妖魔が父だったと信じたくない。しかし、妖魔は京子の名を呼び、京子を〝俺の娘〟と言ったのだ――
「お母さん――お母さん――」
みるみるうちに京子の両眼に涙がたまり、とめどもなく頬を伝って落ちた。
「怖かったのね。もう大丈夫よ。いったい何だってあんなところに行ったりしたの」
だが、口調は優しく、母は京子の頬を撫でた。
――お父さんを殺したかもしれない妖魔を見に。
泣きながら、京子は心の中で答えた。
でも――その妖魔が、お父さんだった。
父の死が確定するまではとこらえつづけてきた涙が、後から後からあふれ出た。
真実を知らない母は、そんな娘の髪を、何も言わずに撫でつづけていた。
*
「
人気のない廊下を歩いていく友部に、そんな少女の声がかけられた。
「呼んだ覚えはないぞ、ワンダ」
友部はそちらに目をやりもせず、そのまま通り過ぎた。
白いレースのワンピースを着た銀髪の美少女は、腰の後ろで手を組んで、壁に寄りかかって立っていた。年齢は十歳前後か。肌は透けるように白く、ただ瞳と唇だけにそれぞれ青と赤の色がついている。波うつ銀の髪は肩先できれいに切りそろえられていた。
「だって
ふっくらした唇をとがらせて、なおも少女は言いつのる。
「教えたら、あんなに嫌われることないかもしれないのに。
「バカヤロー。いくら俺が人でなしだって言えるかよ」
友部は足を止めて、限りなく苦い笑みを浮かべた。
「おまえのおふくろは
白い少女は軽くスカートを持ち上げて腰を低くすると、何も言わずにその場から消えた。
「俊太、ごめんな」
低く友部は呟いた。
「俺はおまえに嘘ばっかついてる」
美しい妖魔使いのその苦渋に満ちた呟きは、誰の耳にも入ることはなかった。
―了―
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