88:ペテン師の本音

 あまりに突然の宣言に、佳乃も千歌もすっかり固まってしまった。それ自体に気付いてはいたけれど、この場面とその告白には脈絡がなさすぎて、心の準備が、ほら、ねえ。

 どう答えてよいものかと視線を交わす佳乃と千歌を後目に、花乃は独り言のように続けた。

「努力すれば報われるって湯浅さん言った。何もしないのが鬱陶しいって。……でも、わたし、何かして平気でいられるほどつよくないんだよ。どれだけ努力しても、わたしもすきな人も幸せになれないんだったら、すきな人が幸せになってくれるほうが、ずっといい」

 思いがけず耳にした花乃の本音に触れて、佳乃と千歌は同時に身を乗り出した。

「な、なんで報われるって湯浅が言うの? だってあの湯浅よ?」

「ど、どうして幸せになれないって思うの? 先生と生徒だから?」

 タイミングからどもり方までハモりながら、内容はてんで対照的な千歌と佳乃の質問に、花乃は少し笑った。こうやって誰かに話を聞いてもらうのは初めてのことで、不思議な感覚だった。

「わたしは先生が好きだったの。だから、先生にはずっと先生でいてほしい。わたしが報われようとして努力なんかしたら、傷つく人が沢山いるの。先生も、先生じゃいられなくなる」

 佳乃と千歌の脳裏をよぎったのは、花乃が明らかに情緒不安定になっていた時期のことだった。頬に出来た傷、そのかさぶたが消えるまでの――あのことに関係があるのだろうか。

「湯浅さんはね、わたしが先生を変えたんだって言ったの。私情が混じるって……でもそれはきっと湯浅さんの思い過ごしだよ。もう――期待なんて、したくないの。しちゃいけないんだもん」

 だから、もういいの、と花乃は吹っ切れたように笑ってみせた。


(傍目にも解るほど、花乃が先生を変えた……? 努力をすれば、報われる?)

 今まで考えないようにしていたことが、突然佳乃の胸の内を覆った。かなうはずのない恋で花乃が傷つくばかりだと、そればかりを心配していたけれど、それら全てを揺るがす根幹の部分に自分はとんでもない置き忘れをしてきたのではないだろうか。肝心なものだ。非常に肝心な――


“――いやだと言ったら?”


「あ……?」

 佳乃は凍り付いた。妹の様子に気付いた花乃が目を丸くする。「どうしたの、佳乃ちゃん」

(あたしが花乃に近づくなっていったら、嫌だって……アイツはそう答えたじゃないの! あれがアイツの本音だったっていうこと? つまり何よ、つまり、要するに、りょうおも……)

 それ以上考えることを本能的に拒否して、佳乃は歯ぎしりして頭をかきむしった。

「迂闊だったわ……バカにされたとばかり思ってた! ――っ、ゴメンあたし用が出来た!」

 声をかける隙もなく脱兎の如きスピードで階段を駆け下りていった佳乃を、二人は呆然と見送った。遠くから、ウォーミングアップを始める後輩達の声が聞こえてくる。もう終礼も過ぎたらしい。

 千歌は花乃を振り返った。二人で向き合うのはひどく久しいということも、互いに気付いていた。

「……帰ろっか」


 千歌と並んで駅までの道を歩く、そんないつもの風景が今日はまったく別物のようだった。

 背筋をピンと張り、颯爽と歩く千歌のあとを少し早足でついて歩きながら、授業中の話や遊びに行く計画、美味しいケーキ屋の話なんかをしたあと、また明日ねと言って別れるまでの道のり。

 それがぱたりとなくなってから、もうひと月以上が経ってしまっていた。

 花乃は千歌の真横に並んで歩いた。髪を風に遊ばせながら、ただ並んで歩くことだけが目的のようにして。千歌も同じだった。いつもなら大股ですたすた歩くその歩調を、少しだけ緩めて。

 残された時間の少なさを、変わっていく風景が如実に伝えようとする。この道のりさえ、もしかすればこれが最後になるかもしれない。それほどの瀬戸際だと解ってしまっているから。

「あ、千歌ちゃん、昨日受験だったんだよね。お疲れさま、どうだった?」

「そうね、うん、まあそこそこじゃないかな。模試でも妥当なラインだって言われてたし」

 千歌は謙遜を嫌うタイプだが、その自信の密度に不安が付け入る隙はない。要するに彼女が大丈夫だと言えば大概その通りになってしまうので、花乃は安心して笑い返した。

「そっか、良かったね。――高澄くんと同じ大学に行けるといいね」

 千歌は答えなかった。沈黙には迷いを、花乃を見る視線には緊張を押し隠している。

 自分の真意を推し量ろうとしていることに気付いた花乃は、思い切って口を開いた。

「千歌ちゃん、ごめんね」

「え?」

 花乃はひらりとスカートを翻して、不意をつかれて立ち止まった千歌に向き直った。

「わたし……今なら解るんだ。千歌ちゃんと高澄くんのきもち。自分が幸せになりたい、それが当然だって言った千歌ちゃんを、自分勝手なわがままだって思ったこと、謝りたかったの」

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