87:騎士 vs 魔女
フリーズしたままちいとも動かず、口を開くことすらできない花乃に向かって、痺れを切らした栞はついに絶叫した。背越しにある、鉄の扉がわんと震えるほどの大音響で。
「ああっもう、このおーばーかー! つまり、手ェつけるなら最後までやれってことよおわかり!? ていうか大体何で私がこんなことアンタに言わなきゃいけないのよ腹立つわねえー!」
胸ぐらを掴まれて凄まれても、花乃はその手を振り払うこともできなかった。栞の言葉は、そのまま素直に受け取るにしてはあまりにも意外なものだった――
「ゆ、湯浅、さん」
「そこで花乃に何してるのよっ、湯浅栞ー!!」
鬼の形相に対抗するには鬼の形相で。そう言わんばかりに顔を真っ赤にし、三段飛ばしの勢いで階段を駆け上がってくるのは佳乃だった。「花乃から離れなさいよー!」
栞は眉根を寄せ、うるさいのが来ましたわねと言って花乃を放した。二人の間に出来たわずかな隙間に両手から突っ込み、その間をベリっと割くように引き剥がした佳乃は、花乃を背後にかばい栞に向き直った。「湯浅、あんた性懲りもなく花乃に何いちゃもんつけてんのよ~!」
怒りに震えながらわめく佳乃と、半目の状態でそれを見返す栞をハラハラしながら見ていると、階段をぱたぱたと駆け上がってくるもう一人の影が見えた。千歌だった。
「ヨシ、待ってったらもー、やっぱり花乃いたの?」
ハアハアと息を切らしながらようやく踊り場まで上り詰めた千歌は、そこでにらみあう蛇とマングース、もとい佳乃と栞を見て足を止めた。「げっ、遅かった……」
「花乃が言い返しもしないことを逆手にとって、あんたのストレス発散に使うのやめてくれる! 言いたいことがあるんなら、あたしが相手になってやるわよ!」
やる気満々で言い放った佳乃に比べて、栞はさきほどまでの血気もなくどこか醒めた目でそれを見ていた。そして、呆れたようにため息をつく。「あなたがそうやっていつもいつも甘やかすから、立ち向かうことも忘れたんじゃありませんの」
「……なに?」
訝しげに聞き返す佳乃と、身を固くして立ち竦む花乃を交互に見て、栞は踵を返した。
「そのあつかましいハングリー精神を、あなたのお姉さんにもわけてあげたらどうかって言ってますの。努力すれば報われるくせに何もしないめざわりな人より、力ずくでも奪いとるくらいあつかましい人の方がいくらかましですわ」
「はあ?」
佳乃の呆れの混じった声が響いても、黒髪をなびかせたその背は振り返りもしなかった。
千歌が怪訝な表情で自分を見ていることを察していても、栞の怒りを知ってしまった花乃は、ただ俯くことしかできない。
胸元で、冷たい両手を強く握りしめる。
(努力すれば報われるなんて、思ってないよ……)
それがどんなに痛くても、誰も傷つけることのない恋がしたかった。
偽善といわれても、その自分の信念を貫き通したいと思っていた。
(力尽くで奪い取るものが恋だなんて、信じたくないのに)
けれど、必死で守ろうとしたこの信念さえ、誰かを傷つけることになるのだろうか。
このままでは、迷宮から永遠に出られない。
(もう決めたのに。どうして揺れるの――どうして泣きたくなるの……)
「な、……なんだったの、アレ。ハングリー? あたしのこと?」
栞が足音も高らかに立ち去ったあと、佳乃は目を白黒させて花乃に向き直った。階段の半ばで立ち止まっていた千歌も、ひょいと肩をすくめてみせてから、花乃の元に駆け上がってきた。
「おつかれさま。災難だったわね」
「佳乃ちゃん……千歌ちゃんも。どうして?」
佳乃はまだ憮然とした顔で栞の去った階段下を睨み付けながら、口を尖らせた。「湯浅がアンタを怒鳴りつけてたのを見たクラスメートが、廊下で会った千歌に報告してくれたのよ。そこにあたしもいたってわけ。まだ帰ってなくてよかったわ、まったく油断も隙もないったら……」
千歌はそれを聞いたときの佳乃の瞬発力を思い出して吹き出した。佳乃があんなに血相を変えて疾走することなど、今や花乃のため以外にはあり得ないだろうと思う。騎士自身も姫本人もその自覚はイマイチないようなのだが、二人の恋人になる相手の苦労は今から目に見える。
「ホントにヨシって、花乃命なのよねえ」
「あったりまえでしょ」と何故か得意げに胸を張ってから、佳乃は花乃の肩や襟をぽんぽんとはたいた。どうやら栞に凄まれていたことを気にしているらしい。「なんなのもう、許せないわアイツ!」
黙って俯いていた花乃は、そこでようやく顔を上げた。
「湯浅さんは悪くないんだよ……怒らせちゃったのは、多分わたしのせいだもん」
「何言ってるの! 花乃がそんな風に受け身だからアイツが図に乗るんでしょう!」
花乃は唇を引き結んで首を振った。いつもの笑顔のないその様子に、佳乃はますます栞に対する怒りを燃え上がらせたが、千歌は冷静にその表情を眺めていた。
伏せられた花乃の瞳にあるのは、凄まれた怯えとは違う翳りの色。
その色を知っている。
答えがないことも覚悟して、千歌は尋ねた。「湯浅は花乃に何を言いに来たの?」
花乃はしばらくぼんやりとした表情で千歌を見返していた。言われたことを整頓しているのか、幾度か視線を天井近くにまで泳がせたり、手を口許で握りしめたりしていた。 「……花乃?」
佳乃の不安げな声の余韻も消えた頃に、花乃はふと顔を上げた。
夢から目覚めたばかりのような顔をして、そして少しだけ微笑んだ。
「わたし、すきな人がいたの。せんせいなの」
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