72:咎の搦め手・6

「あれから五年たった。私は自力で作ったコネクションを駆使して、世界の舞台に立てるようになった。まだ端くれに過ぎないけれどね。それでも随分と余裕は出てきたわ……あなたの、一つ目の条件を完璧に叶えてあげられるくらいにはね。ねえ『磐城先生』?」

 ぐうの音も出ない英秋を楽しげに見返してほのかは笑う。五年前とほとんど変らない――いや、ますます艶やかな色香が加わったが、それは営業のアクセントとして作用するのみだ。彼にとっての彼女は、今も昔も絶対にかなうことのない恐るべき存在に他ならなかった。

「言わないでおこうと思ったけれど、最近のあなたはおかしいわね。解ってるの? あなたは叩けば埃の出る存在じゃ困るのよ。あんな生徒にフラフラ振りまわされるなんて」

 立ち竦む英秋を気にもとめず軽快に踵を返して、ほのかは赤いソファにかけなおした。ガウンのあわせからすらりと伸びる白い脚を組みかえる。

 ふと寒くないのだろうかと英秋は思った。

 いや、この部屋は暖房で完璧に暖められているはずだ。それにも関らず、彼の指先のわずかな痙攣は止まらない。それが寒さからくるものなのかどうなのか彼には判断できなかった。

「今契約を反故にするなら、私が苦心して手に入れた純泉堂理事との縁故も切るわ。あなたは念願の教職を失う。必要な資金も手に入らない。ついでに、親切な誰かさんの投書によって、卒業間近の一人の女の子は停学か退学ね」

 ほのかの言わんとするところがなんなのかを、腕を走った一際激しい痙攣が物語る。

「だーいじなだいじな生徒さんの将来を、ほかでもないあなたが壊しちゃうのよ」

「よせ、アイツに手を出すな。何度言わせる、関係ないと言っているだろう!」

 面の皮の厚さを張り合ってきたような二人だが、今や英秋の余裕は完全に吹きとばされていた。蒼白になって声を嗄らす男を哀れなものでも見るような眼差しで見返し、女は淡々と続ける。

「なら、私にそれを証明するしかないわね。仕事で予定外の一年を追加しちゃったけど、今年は私も大学を卒業できるし。3月、私が日本に帰ったら、すぐに契約を果たしてちょうだい?」

 英秋に向けて差し出された左手の薬指には、一つ目の契約の証のリング。ほのかの誕生石は、彼女が最も好む鮮やかな深紅のルビーだった。クリスマスに買ったばかりで、銀もまだ色褪せずに輝きをそえている。

(クリスマス――もしあそこで、あいつに会わなければ)


 あの頃はなにもかもがどうでもよかった。ほのかはやや過激な所があるが英秋にとってマイナスになる要素など持ち合わせておらず、申し分のない契約相手、結婚相手と言えた。これほど自分に近い女など、そうそういないだろうと思っていた――恋愛の相手ではなくとも。

 自分には一生、恋愛などできない。するつもりもなかった。

 だが婚約の直後にあのアーケードで会ってしまったこと。それが、何かを大きく動かしてしまった。自分が自分でなくなるような、世界が世界でなくなるような。あり得ない感情だった。

(会わなければ……変わらなかったのだろうか)

 ぼんやりと浮かぶのはいつも笑顔。あまりにも自分と対極の存在、最初は疎ましいとさえ思ったその無邪気な微笑みが、今はおかしなほどに懐かしい。

 一緒にいるときの感情を喩えるなら、安堵と言うほかになかった。直情的に吹き上がるものではなく、心の奥底からにじみ出てくるあたたかいものが、体中を浸していく。

 他人の笑顔に気持ちが左右されることなど今までなかった。ただ、あの笑顔だけは失いたくない、この手で守りたい。その思いで、今日このほのかの前まできたはずだった。対峙も覚悟の上で。

 けれど、触れて彼女の幸せを壊してしまうのは、ほかでもない自分だと――心の底では解っていて、それでも認めたくなかったことを、真正面から受け止めるはめになった。

 英秋を、絶対に感じることのないものをかすめるような感覚が浸した。

 絶望というのは、これを、もっともっと深く暗くした感情のことだっただろうか……


 ほのかは右手でするりとルビーのリングを抜き、英秋の目前にかざしてみせた。まばゆいライトを透かして照り返す紅く鋭い光に、目が眩む。

 英秋の思考は、会話の終結を兼ねたほのかの宣告に遮られた。

「この薬指に、これに代わる、二つ目のリングを」


 咎を搦め捕った彼の婚約者は、そう言い残して、翌日日本を旅立った。

 別離と完了の待つ運命の3月まで、あと2ヶ月弱を残すのみになっていた。

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