71:咎の搦め手・5
「そんなに驚かないでよ。別に難しいことじゃないでしょ?」
驚愕で口の閉まらない英秋を呆れた眼差しでもってほのかが制する。たかだか18歳の年端もいかない少女に、このときの英秋は完全に翻弄されていた。
「これを驚くなと言うなら一体何に驚けばいいんだ。自分の言ってる事わかってるのか?」
「なによ、結婚を前提に付き合いなさいっていってるだけじゃない」
「お前は何様のつもりだコラ」
「素が出てるわよ先生。別にあたしのことを好きになれなんて言ってないじゃない」
目の前の少女の言っていることがむちゃくちゃだとしか思えないのは、自分の読解力不足が原因ではないはずだ。英秋は頭を抱えて机に突っ伏した。頬杖をついて、肩までの髪を指先で弄びながら、ほのかは何でもないことのように口を開く。
「あたしは見返したいの。この世の何もかも。生活水準が低いとか、家庭に恵まれないとか、そんな理由であたしを排除してきたすべてのものを。先生だって、似たようなものでしょう」
英秋は顔を上げたが、ほのかは答えを求めるでもなく続ける。ほとんど独り言だった。「まずはあの酒乱暴力親父しかいない家を出る、そのためにあたしは顔と身体を駆使してこのマンションを手に入れた。武器になるものをたったひとつでもくれたことは、神様と死んだ母親に感謝してるわ」
ほのかが抑揚のない声で語るそれは、彼女の境遇を端的に、けれども如実に表していた。その感情はほかでもない英秋にも覚えがあった。だから、言葉は痛いほどシンクロする。
「今欲しいのはもっと強力な
「……だったら、お前一人で充分だ。俺なんか必要ないだろう」
ほのかは笑った。目には底冷えするような迫力を湛えたまま。
「邪魔をしない存在が近くに欲しいの。あたしは誰も好きにならないし、あたしの益になる男以外とつきあうつもりもないわ。でもね、パトロンの存在を出来るだけ希薄に見せかけるためには、ずっとフリーでいるわけにはいかないのよ。わかる?」
英秋もずっとそうだった。自分に貢ぐ相手を見定めてつきあいを始めても、それはどこまでいっても擬似恋愛でしかなかった。誰にも心を許さない――許せない、ほのかもそんな風に生きることしか知らないのだ。
「ある程度のレベルをクリアした、恋愛以外の関係で結びつく相手が欲しいの。いずれは入籍も視野に入れて、マスコミに叩かれても埃もでないような堅気の職業に就いてくれる、そんな相手よ。本当は探すだけムダかもしれないって思ってたわ……でも、先生がいた」
ほのかが言葉を切ると、部屋には静寂がたちこめた。二人の間の温度は上がることなく、一定の冷感を保ったまま彼らと同じように鎮座している。
無反応の家庭教師を軽く睨んで、ほのかは肩を竦めた。「ここまでは私からの契約内容よ。ここから先は先生への見返りね……そうね、私の予想を言わせてもらうとすると、あなたが欲しいのは、とりあえずはお金。それから本物の教師になることじゃない?」
全身の筋肉が収縮する。表情を取り繕うこともできないままに英秋は少女を見返した。彼の狼狽を見てとってか、ほのかは柔らかく笑みを浮かべた。まるで幼子を宥める慈母。
「あくどい手まで使って客から大金を巻き上げているくせに、最低限の金品しか持っていないでしょう。貯金をしているわけでもなさそうだし。天職ともいえるホストのあなたが、教職に拘るのもおかしな話だもの。余程の思い入れがないと、こんな子供の言うことなんて聞かないでしょうし」
たしかに外見はまだ少女の面影を残してはいるが、言葉にも態度にも子供じみた隙など一つも見当たらない。生殺しの気分を味わいながら英秋は凍りついていた。避けてきた事柄を一気に目の前に広げられた衝撃で、迂闊にも笑ってごまかすことができない。
「まあ、深いことは聞かないわ。言いたくないこともあるでしょうし、それを知りたいわけじゃない。あたしの予想が合っているか、間違っているかだけ聞かせてくれればいいの――今はね」
しばらく黙っていた英秋は、ようやく声を絞り出した。「……だったら、なんだ」
それを聞いた彼女が浮かべたのは、勝利を確信した笑顔だった。
「あたしは、絶対にその二つをあげられるわ。あなたが必要な分のお金も、教師に採用されるために必要な手筈も、いつかかならず。ねえだから先生、あたしと契約をして。そのうちのひとつを叶えることが出来たら、婚約指輪を。二つを叶える時には、結婚指輪をちょうだい」
彼が手に入れるものは、「金」で買う自由と、「教師」という名の過去の束縛。
彼女が手に入れるものは、恋愛感情以外のすべてを兼ね揃えた「伴侶」。
――それが、そのときになされた二人の契約だった。
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