67:咎の搦め手・1

 立ち話は寒いから、話すついでに車で家まで送っていってあげるわ、との言葉に従い、忍はおとなしくその助手席に腰掛けていた。すぐわきで、白く滑らかな手が、慣れた仕草でギアを操作するのをもの珍しげに見つめる。

「ミッションなんですね」

「左手が空くのがイヤなの。慣れたら楽しいのよ、アナタもとるならMTになさいな」

 英秋はタバコ吸うのに便利だからってATしか乗らないけどね、と付け足してほのかは笑う。第一印象はそれこそ花のような、か細い手弱女そのものだった気がするのだが、今目にしている運転の様子やその口調には、太い芯が見え隠れしているように忍は感じた。

「……花乃ちゃんのことで話って、なんですか」

 ほのかはちらりと忍を横目で一瞥し、軽く笑ったあと口を開いた。「本当はこんなこと、誰にも言いたくないんだけどね。私、明後日から仕事で海外なの。このまま黙って行ってしまったら、またよからぬことが起こるかもしれないでしょう?」

「よからぬことって」

「あわてないで。私が説明することではないわ、私も何があったかは知らないもの」

 身を固くする忍の膝にぽんと投げてよこされたものは、真っ白なスマートフォン。ほのかのものだろうか、スワロフスキーガラスの連なるストラップが触れ合って涼しげな音を奏でた。

「操作はだいたい解るでしょう、ギャラリーを開いてみて」

「……」

 忍は黙ってそれを手に取った。幸か不幸か、持ち前の要領のよさは機械に対しても健在で、忍はすぐにその在処まで辿りつくことができた。

 ファイル名は『0118』――そのタイトルを見た時に、すべての覚悟は決まっていたのかもしれない。

 サムネイルでも、展開された画像を見ても、度肝を抜かれるほど驚いたわけではなかった。ただ乾ききった吐息が喉の奥を鳴らして、少し視界の明度が下がったように感じた。それだけだった。

 数秒それを見つめたあと、ホームボタンで待受に戻す。

「……あなたが撮ったんですか?」

「あら、思ったより驚かないのね。まさか容認しているわけではないんでしょう?」

 忍は答えず、探る視線をほのかの表情に据えた。立場から見れば同類だが、外見がそのまま伝える性質の女性ではなさそうだと直感が告げていた。

「その日の朝、あなたの大事な彼女が、あなたの先生の家から出てきた」

 ずばり耳を打つ事実に、忍はさすがに息を止めた。

「これがどういうことか、解らないとは言わないでね。別に教師と生徒だからどうこうなんて言うつもりはないわ。重要なのはアナタがその子の彼で、私がその先生の許婚ということよ」

 車の速度が、こころもち上がった気がした。ほのかは前を見据えたまま、忍にとっては刃にも等しい言葉を次々と投げかけた。「その子が好きなら、彼女をしっかりと捕まえておいてちょうだい。悪いのはその子だけれど、あなたにも彼女の行動くらい把握しておいてほしいのよ」

 忍に言い返せる言葉はなかった。深く息を吸う、それさえできない。凍りついた表情のまま俯いてしまった忍を無表情に見返して、ほのかは甘い声で囁いた。

「それとも、彼女が憎い? それなら協力してあげるわよ。私、あの子嫌いなの」

 忍は顔をあげた。夕食を作ってあげてもいいわよ、というのと同じような口調で、ほのかはそう言って笑っている。冗談混じりなのだろう――だが一瞬、忍の脳裏に花乃の張り詰めた様子が甦った。ほのかは花乃が英秋の家から出てきた所を目撃しているのだ。いや、写真におさめるという周到さからして、そうなることを前もって予想していたのかもしれない。

 花乃を殴ったのはほのかなのだと、忍は確信を得た。少し前までなら思いつきもしなかっただろうが、今はやりかねないと思ってしまう。佳乃や花乃や、忍が今まで接触してきたどんな女生徒たちも持たない鋼鉄の鎌を、隣で微笑む女性は常に構えているのだ。

「憎くなんかない、やめてください」

「おこらないで、ごめんなさい冗談よ。でも好きにはなれないの解るでしょう? あなただって、英秋が嫌いになったんじゃない? 私たちが、被害者なのよ。報復は当然の権利だわ」

「報復って……オレ、そんなつもりないですから。ここでいいです、降ろして下さい」

 実際は家までまだ一駅分ほどあったのだが、今は何よりもこの車から――ほのかの傍から離れたかった。彼女の言動を恐ろしいと思うのと同様に、自分の胸の中で混沌を描く感情が、どんどん彼女の言葉に反応していくのが怖くなった。

 ほのかは肩を竦めながらも案外素直に車を停めた。降りて扉を閉めようとする忍に、笑顔を忘れず念を押す。「優しいだけじゃ男がすたるわよ、ときには放任よりも束縛が大事なの」

 笑い返すことのできぬまま、忍はドアを閉めた。走り出す車から視線をはがす。

(……やばいなあ)

 小刻みに震える膝を見て、忍は思わず笑ってしまった。本当にこんなことがあるのか。緊張でもなく恐怖でもない感情で身体全体が悲鳴を上げていることにも純粋に驚いた。

(泣きそうかも)

 ガードレールを跨いで、方向を確かめて歩道を歩き始める。真冬の向かい風が全力でその歩みをとどめようとする。まけるものかと思う反面、この風に乗って遠くに飛んでいってしまえたらとも思う。

 花乃がほのかに殴られたのだと悟ったとき、なんてことをと確かに思った。けれど、抗議の声はあげられなかった――その瞬間は、それに勝る感情が存在したのだ。

『裏切ったんだから当然だ』

 ほのかの言う、報復を喜ぶ感情だと今なら解る。一人で考える今だって、花乃の行動を許せるとは自分でも思わない。

 けれど、面と向かって彼女を批判するのは無理なことだった。花乃は恋を知らず、この関係が模倣でしかなかったことも知っていたし、それでもいいと言ったのは自分。

 それに何より、諦めなくてはならないと解っても、今はまだ花乃が好きなのだ。あまり泣き顔は見たくない。

「――やっぱり、これが王手かな……」

 忍は目を閉じて笑った。心に吹きすさぶ嵐がおさまるには、まだもう少し時間が必要だった。

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