66:誇りのかけら・2

 花乃は立ち止まった。それにともなって、拓也も足を止める。

 橙の街灯に照らし出された花乃の顔に、いつもの微笑はなかった。

「――神崎くん、修学旅行の時、佳乃ちゃんと福原くんを取りもとうとしたよね」

「いえ……取り持つというよりは、ただ、忍の気持ちをはっきりさせたかっただけで」

「それでも、福原くんが佳乃ちゃんを受け入れたら、自分は身をひこうって思ってたでしょ?」

 いつもゆるやかに応酬する花乃には考えられないほどの強さで問い詰められて、拓也は神妙な顔で頷いた。「ええ。確かに、忍と佳乃さんが幸せになれるならそれでいいと思いました」

「……つらいって、思わなかったの。悔しいとか……離れたく、ないとか」

 渾身の力で絞りだされた声は、刺すような冬の風に震えていた。

「だれにも、渡したく、ないとか……じぶん、が、しあわせに、なりたいとか」

 一言吐き出すごとに身を切られる思いなのだろう、花乃の両手は目に見えるほど震えていた。花乃の抱えるものの中枢に辿り付いたことを確信した拓也は、気を引き締めて向き直った。

「それは……まあ、当然。嫌というほど思いましたよ。どうしようもないことばかり」

「それでも神崎くんは自分の気持ちにウソついてまで、佳乃ちゃんのために動いたのよ」

 どうして、と顔を上げた花乃の瞳から、細い光の糸が流れ落ちるのを拓也は見た。


 いまでこそ全て――気持ちの上では全て丸く収まったけれど、あの頃はそんなこと想像もできなかった。ただ毎日が暗く淀んで、その中で溌剌と輝く彼女だけが光明だった。

「僕の想いなど、叶うはずがないと思いこんでました。全てに恵まれた忍が憎かったし、力尽くでアメリカに攫ってしまいたいとも思いました。今思えばバカなことばかり。けれど結局、最後に辿りつくのは彼女の笑顔なんです」

 その言葉に誘い出されるように、ふわりと花乃のまなうらにひらめいたのは、不器用な彼の、はかない笑顔。

「自分では彼女を絶対に幸せにできない、それなら、どこへ行っても彼女が笑顔でいてくれるとわかっているほうが、間違いなく救われる。自分も、相手も。そう思いました」

「……ぎぜんだって、言われても?」

 千歌なら間違いなくそう言うだろう。そして自分でもそう思う。その言葉を超えるだけの自信がどうしてもわいてこない。悔しい、離れたくない、という思いは確かに存在するのだから。

「ええ、そうですね、偽善です。でも結局……偽善だと解ってはいても」

 自嘲じみた微笑みは、しかし後悔をしている風ではなかった。

「どこに転んでも、自分の幸せが、好きな人の幸せのもとにあるのなら同じです」



 センセイが好き

 その誇りが、かけらに変わる



 花乃はこわばった腕でぐいと涙を拭って、拓也に向かって笑った。強く。

「えへへ、そうだよね、やっぱりすきな人には幸せになってほしいよね!」

 自分といても、誰もが不幸にしかなれないと解っているのなら、迷うことなんてない。

(わたしのせいで、絶対にセンセイを、やめさせたりなんかしない)

 開き直ったわけではないけれど、拓也の言葉が花乃に最後の大芝居を打つ勇気を与えた。

「……あなたにそんなに思ってもらえる人は、幸せな人ですね」

 一人で小さく腕を振りまわして気合を入れていた花乃は、拓也に笑われて赤くなった。「そんなことないよ。迷惑しかかけたことないし、いつも間抜けなところばかり見せちゃって恥ずかしい」

「でも、好きなんでしょう?」

 笑みを含ませた拓也の言葉に花乃は目を丸くして、そして、まっさらな満開の笑顔を咲かせた。

「うん、大好き!」


(こりゃ佳乃さんが妬くわけだ)

 花乃は明らかに変わった。その変化についていけない佳乃は必要以上に花乃を心配し、花乃の相手らしい『変態教師』(佳乃談)に憎悪と言ってもいいような感情を向けているが、これならきっと心配は不要だろうと拓也は思った。

 誰に守ってもらうでもなく、花乃は自分で考え、自分で立っている。問題を打破する力を持っている。辛い選択も厭わない、至上の恋を知っている。

(そろそろ、過保護も卒業の時期かもしれませんね、佳乃さん?)

「佳乃ちゃんに心配かけたこと、ちゃんと謝らなくちゃいけないね。ありがとう神崎くん」

「いいえ。……それと、まあ自業自得なんで構わないんですが、できれば忍にも早めに引導を渡してやってください。血迷ってまた佳乃さんの方にふらふらされたらたまりませんし」

 花乃はドキっとしたが、殊勝にそれを受けとめて頷いた。「うん……わかってる、明日言おうと思う。でも福原くんだってきっともうフラフラなんかしないよ」

 花乃は笑ってとりなしたが、拓也は親友に対して辛辣な評価を崩さなかった。佳乃を傷付けた前科は、拓也にとっては相当な重罪だったようだ。

「さあ、それはどうだか……さっきだって」

「え?」

「校門に着いた頃、入れ違うみたいにして赤い車が出ていったんですけど。見間違いでなければ、年上に見える綺麗な女性の隣に座ってましたよ、忍」

「――――赤い、」


 花乃の言葉は途切れた。思い当たるのは一人しかいなかった。

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