62:もうすこしだけ・2

「その絆創膏どうしたの」という教師や友達の問いに、「階段ですっ転んでしたたかに顔だけ打った」という答えで笑いを取りながら、花乃はなるべく目立たないよう俯きがちに過ごした。だれも――忍でさえも――深く立ち入ってくることはなかったので、最後の終礼だけをサボって平穏に帰宅すればよかった。

 ところが、6限目の化学がよりにもよって自習になり、その監督としてやってきた教師に女生徒たちは色めきたった。きゃあきゃあと騒ぐ彼女たちの声を遠く聞きながら、花乃は唇を噛んで重いため息をついた。傷を頬杖でごまかすため、さっと左頬に手を当てる。

「とりあえず、プリントをやっておいてほしいと言付かってるから、この1時間びっしりやってもらおうか。期待した奴は残念でした、オレはずっとここにいるからな、さぼるんじゃないぞー」

「先生に質問してもいー? 先生化学解るー?」

「化学かー……そうだな、英語よりはマシかな」

「何言ってんの、英語教師のクセにー!」

 あちこちではじける笑い声と笑顔を、花乃は不思議なものでも見るような顔で眺めていた。彼が来るといつもこうだ、クラス中が花でも咲いたみたいに突然明るくなる。

 教師としては確かに異質なのに完璧で、誰をもひきつけてやまず、そのくせそれを虚構だ演技だと自ら言ってのける人。

 だったら、彼の真実はどこにあるのだろう。

 自分だけは知っていると思っていた。明るく実直な先生の顔の裏、非道な言葉や不遜な態度のそのまた裏の、あの不器用な優しさも、律儀さも。今でも信じたいと思っている。

 けれども、ほのかの言葉が胸を刺すのもまた事実だった。彼の過去などもう自分には関係のないことだと何度も考えたはずなのに、じりじりと胸を焦がす燠火はなかなか消えない。

(センセイを見ちゃだめだ……)

 花乃は頬杖をついたまま配られたプリントを解くことのみに集中した。見まわりの英秋がわきを通りぬける度に飛びあがる思いをしたが、彼は声をかけてくることはなかった。近くの女生徒に捕まって延々と相手をさせられているのを横目に、花乃はひたすら時間が過ぎるのを待った。

 そして、ついにベルが鳴った。

「よし、おしまい。プリントは次の授業で提出しろとのお達しだ」

「えーっ! じゃあ家でやっても良かったんじゃん、先生のイジワル~!」

「はいはい、終わったことはとやかく言わない。じゃ、とりあえず終礼まで休憩」

 どう頑張っても半分解くのが精一杯だったプリントを鞄の中に押しこみ、立ちあがったクラスメートたちに紛れて花乃はそっと教室の後出口に向かった。千歌と忍の驚く顔が視界をよぎったけれど、どうしてもこのまま終礼までいる気にはなれなかった。

 冷静になろうと思えば思うほど高鳴る心臓に涙が出そう。

 枯らすと決めたのに、なんていう生命力だろう――


「関口」


 ドアの取っ手に手をかけたところで、声がした。

 全身が震えた。

 絶対に振り向かないと決めた。



(もうすこしだけ、おねがい、まって)



 立て続けに突然教室を飛び出していった彼らを、クラスメートたちは豆鉄砲をくらったハトのような顔で見送っていた。

 呼びとめられさえしなければ誰も花乃が教室を抜けようとしていることなど気付かなかっただろう。それくらい静かだった。だが英秋はそれを許さないとでもいうような勢いで教卓から立ちあがり、突然「終礼はカット、はいサヨナラ」と言い放った上で、そのあとを追ったのだ。

 呆然と廊下の向こうを眺めていた千歌は、みるみるうちに眉根を寄せ、口元に手を当てた。

(まさか、花乃の相手ってまさか――そんなはず……ない、よね)

 千歌はとっさに忍を目で探った。

 誰もが廊下に向かって首を傾げているなか、忍だけはまったく逆の、窓の外を見ていた。

 差し込む夕日の光に目を細めて、痛みに耐えながら、それでも目を逸らさずに。

 空の果てに紅く滲む陽はこの目にあまりにも眩しいのに、それが連れてくるものは、夜。


 この光を


 あと――もうすこしだけ。

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