61:もうすこしだけ・1

 もうすこしだけ、まって



 精神的な打撃と疲労からか、花乃は熱を出して学校を休んだ。微熱と平熱の境目をふらふら行き来する程度で、もしかしたら必要以上に頭を使ったことに対する知恵熱かもしれなかったが、花乃は1日中ふとんにくるまって過ごすことにした。1日休んだくらいで何が変わるわけでもないと解ってはいたけれど、どうしてもこの日は行く気になれなかった。

 丸1日ひとりでじっとうずくまって、覚醒とまどろみを繰り返しながら考える。

 しなければならないことが沢山あるはずだった。今まで散々振りまわしてきた忍に対しても、考え方を否定してしまった千歌に対しても、心ない言葉で傷付けてしまった佳乃に対しても、伝えなければいけないことがある。

 そして、英秋にも。

 けれど面と向かう勇気はまだなかった。面影を思うだけで、膿んだ傷のように胸が痛んだ。あれほど暖かかった気持ちは一体どこへ行ってしまったのだろう。

 せめて頬の傷が消えるまでは、ただ、そっとこの心を守りたい。そうすればきっと、誰に対しても、笑顔で伝えることができるはずだから――もう少しだけ、待って。



 翌日まではさすがに休むわけにはいかず、花乃はいつものようにとろとろと学校へ向かった。花乃が起き出したときには、佳乃はもう家を出た後だった。昨夜はえらく機嫌が悪かったと紫乃がこぼしていたので、間違いなく一昨日の言い合いのことで怒っているのだと思った。

(仕方ないよね……わたしが悪いんだもん、佳乃ちゃん怒らせるなんて、よくない……)

「おはよう関口さん、風邪は大丈夫ー?」

「おだいじにねー」

 ガーゼを目立たない絆創膏に貼り換えたためか、肩を叩いて追い越して行くクラスメイトたちがわざわざ立ち止まって言及することはなかった。ありがとう、と答えてその背中を見送ったものの、重い気分が足取りに影響して結局遅刻ぎりぎりに教室に滑り込んだ花乃は、真後ろの席の千歌に見つめられていることに気付いて息を呑んだ。

「……おはよう。大分良くなったみたいね」

 口もとの笑みと尖鋭な視線のせめぎあいが千歌の心の葛藤をそのまま顕しているようだった。花乃はわずかに微笑んで頷き、無言のまま席についた。

 なにもなかったことにはならない。一度生んでしまったものは、良くも悪くも事実として残ってしまう。今まで通りにとか水に流すとかいう言葉をかわしても、きっと絶対忘れられはしないのだと。

 親友との間に生まれた些細な溝が、今の花乃には深い絶壁のように感じられた。

 けれど、それにばかり気を取られているわけにはいかなかった。始まったSHRで、担任の話に集中しようと顔を上げようものなら、絶対に目が合うであろう相手がいた。

「……おいこら福原。俺の話はそんなに退屈か、お?」

「へ? ……あたっ! や、いえ、そんな」

 教室中がどっと賑やかに沸く。どうやらちらちらと後ろばかりを振り向いていた忍が、担任の出席簿でばこんと頭を小突かれたらしい。花乃は笑うことも出来ず、じっと俯いていた。

 忍の顔を見ることが怖い。あれほど優しかった彼を、裏切り続けていた事実を見つめることが辛い――彼を悲しませることしかできない自分が、とてもいやなものに思えてくる。

 案の定、SHRが終わるやいなや、忍は笑顔で花乃のところへやってきた。心臓が跳ねあがる音がしたが、ここで逃げてこれ以上忍を傷付けることだけはしたくなかった。

「おはよう、花乃ちゃん。山で遭難したとか聞いたけど大丈夫だったか?」

「……遭難は、してないけど、ちょっと……風邪ひいちゃったかなあ」

 花乃がえへへと笑うと、忍はどこかほっとしたような表情になった。「一昨日の夜は寒かったもんな。雪、降ってたの見た? ホワイトバースデイだったね、あ、お誕生日おめでとう!」

 花乃がありがとうと答えるまもなく、忍は笑顔で捲し立てる。

「プレゼント渡せなかったから、明日にでも持ってきてもいいかな。花乃ちゃんテディベア集めてるんだよな、俺どれも同じに見えたから妹に選んでもらったんだけど。男ってダメだなー」

「……福原くん?」

 花乃の声で、笑みのかたちに和らげられた忍の目尻がぴりりと引き攣る。それを見てしまった花乃は、不自然なまでの忍の明るさにひそめられたものに、一瞬にして呼応した。

 忍は決して、一昨日の恨みごとを言わなかった。どこで誰と何をしていたのか。

 そして、花乃が拵えた頬の傷にも。

 気付かない距離ではないのに、彼は明確な意思でもってそれを見ないようにしていた。本当は聞きたくて仕方ないはずなのに、花乃の様子に気付いた優しい忍は、花乃を刺激しないように明るく眩しく笑うのだ。ただ、これ以上花乃を傷付けないために。

 いたたまれなくて、花乃は両掌を力一杯握り締めた。このままでいいはずがなかった。

「福原くん。わたし、話が」

 大きく授業開始のベルが鳴り響く。花乃の振り絞った言葉は掻き消され、残響に飲み込まれてしまう。それを追うように顔を上げて、花乃は驚いて息を呑んだ。

 一瞬、泣いているのかと思った。それほどはかない微笑を浮かべて、忍は笑っていた。

「明日……持ってくるよ」



 だから――もうすこしだけ、まって。

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