03:ボーダーライン
純泉祭2日目の朝。ぐっすりと眠った甲斐あって、目覚めは良好だった。
カーテンを開けると、幾重にも並ぶ屋根の向こうに真っ青な空が見えた。天気も上々、11月に入ったけれど例年よりも暖かく、今日もかなりの来客がのぞめそうだった。
念の為にくわえた体温計は、37度に達することはなかった。それでも何度かぐるぐると腕を回したり、立ったり座ったりを繰り返してから、花乃は最終判断をくだした。
「――うん、絶好調♪」
制服に着替え、通学カバンを手にドアノブにふれたところで花乃はふと振りかえった。そして机の引出しから小さな桃色のお守りを取り出すと、ブレザーの胸ポケットにそっと収めた。
(見ててね、頑張る。いつか好きな人に出会えた時に、今日頑張ったことが話せるように……)
「そういえばさあ、佳乃ちゃん。わたし、昨日倒れた後どうしたの? 保健室まで先生が運んでくれたの? それとも自力で歩いたっけ? あの前後のこと、全然覚えてないの」
昇降口に着いた途端、花乃は思い出したように口を開いた。両親の車で家に帰って来たのは聞き知っていたのだが、それまでの経緯をまったく覚えていないことに気付いたのだ。だが佳乃は何故か急に不機嫌な顔になり、唇を尖らせた。「……覚えてなくて良かったわよ」
「え? どうして?」
花乃が尋ね返したとき、廊下の向こうから慌しい足音が近付いてきて、それはあっという間に佳乃の背中に飛びかかった。靴を履き替えるために片足立ちになっていた佳乃は、足音の正体を予測するも虚しく、もろともにその場にぶっ倒れる羽目になった。
「よしのよしのよしの! 昨日、昨日どうだったのよーッ!」
昇降口のスノコにへばり付く格好になったことも気に止めず、もちろん巻込んだ佳乃に謝ることなどついぞ忘れたまま大声で叫んだのは、案の定トラブルメーカーの夕子だった。昨日も確かこの勢いで駆けて来てそのまま更衣室へつれ込まれたのだが、今日の目的はどうやら別の所にあるようだった。「神崎君! 戻ってきたんでしょ、あのあと二人でどこ行ってたのよ!」
夕子に圧し掛かられたままつぶれたカエルのように四肢を放り出していた佳乃は、怒りにうち震えながらうめき声を漏らした。「ゆ、夕子……、どけ……っ」
花乃は慌てて佳乃に手を貸し、白くほこりにまみれた二人の制服をはたいた。佳乃の機嫌がかなり急降下していることを知りながらも、夕子はなおも食い下がって尋ねた。
「どこまでいったのよ!」
「どこまでって……アイツの家の前までよ。そこで別れたわよ、文句あんの?」
「そうじゃなくてー! そっちのどこまでじゃなくて、あっちのどこまでよ!」
(そっちとあっちってどう違うんだろう……)
花乃は夕子の言葉の意味がさっぱり解らず、首をかしげた。けれど佳乃はそうではないようだった。何かを叫び出そうとした形の口のまま固まって、その顔はおかしなほど鮮やかに色づいた。
絶叫も忘れて赤面する佳乃を見て、夕子は高らかに口笛を吹いた。「わお! まさか」
「バっ、カじゃないの――! バカ夕子っ、いきなり何を言い出すか! 家の前で帰ったっつってんでしょ! 第一アイツはすぐにまたアメリカへ行っちゃうんだから!」
「ははは照れない照れない、アンタもすっかり女の子になっちゃったわね~」
「夕子ーッ! 待て、このっ……」
からかわれて真っ赤になった佳乃が夕子を追いかけて更衣室に駆け去ってしまい、花乃はぽつねんと昇降口に立ち尽くしてその背中を見送った。
相変わらずと言えば相変わらずの二人なのだけれど、花乃には立ち入れない部分が確かにあった。『すっかり女の子』になってしまった佳乃にはわかる言葉、けれど、女の子でいたいと思っている花乃には解らない言葉。
くっきりと区切られたボーダーライン、そのこちらがわに取り残された自分。
(おんなのこって、なんなんだろう。恋をしないと、おんなのこって言えないのかな……)
「や、はよ、花乃ちゃん」
ぽんと肩を叩かれて振りかえると、人懐っこい笑顔を見せて忍が立っていた。
「体はもう大丈夫なのか? 無理するなよ、昨日は本当にびっくりしたんだから」
「うん、ありがとう福原くん。もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」
花乃がぺこりと頭を下げると、忍は困ったような照れたような顔で首を振った。「いや、オレは何もしてないよ。佳乃ちゃんが頑張ってくれたから……あと、花乃ちゃんを運んでくれた人と」
「わたしを運んでくれた人? この学校の人なの?」
忍は軽く首をひねって考える素振りをした。「さあ……いや、見た感じ大学生かそれよりも上くらいの男の人だったよ。スーツ着てたし、多分校外来場者の人じゃないかな」
花乃は少しがっかりしてため息をついた。校外来場者の一人じゃもう会えない可能性の方が高い。一言お礼だけでも言いたかったのに、と呟くと、忍は少し悪戯っぽい顔で微笑みながら花乃の目線に合わせるようにかがみこんだ。
「な、その人には無理かもしれないけど、佳乃ちゃんにはさ、何かお礼したいと思わない?」
「え……? うん、したい! わたしのせいで、佳乃ちゃん一人で頑張ったんだもん」
花乃が身を乗り出すと、忍は我が意を得たりとばかりに花乃の耳もとに唇を寄せて、こそこそとくすぐったいような小声で囁いた。
「いいこと考えたんだけどさ、明日の夜の……」
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