挑戦!源氏物語・1

 最後の言葉は、「おやすみ」。

 その夜が明けたとき、もう彼女はどこにもいなかった。


 朝には嵐もおさまって、並木からはしとしとと滴だけがこぼれおちていた。

 早朝5時に突撃電話で叩き起こされ車で風野丘駅まで迎えに来ることになった父親の芳彦は、薄暗い駅前のベンチにぼんやりと座り込んでいる佳乃を発見して手を振った。

「佳乃さん、おはよう。夕子さんちではよく眠れたかい?」

「……うん」

 夕子の家の所在地を両親が知らないことは救いだったなと思いながら、佳乃は車に乗りこんだ。眠れたとは程遠いコンディションだったが、泣かなかったせいか顔のむくみも目の下のクマも目立つほどのものにはならなくてすんだようだった。

(エマさんの部屋では、絶対に泣けない……ううん、もうどこでも、あたしは泣かない)

 滲もうとしてくる涙は後をたたないけれど、喉元にぐっと力をこめて息を止めると、揺らぐ世界はおさまる。目を閉じて開くと、何もなかったようになる。息を吸って目を見開くと、乾く。

 きっとこうやって、普通に過ごして行ける。

 もう二度とあいつには会えないけれど、いつか、それが普通になる日がくるんだから。



 台風一過。それからの佳乃の日々は、一気に目まぐるしく流れていった。

 学校では文化祭の準備があわただしく続き、家では部屋にこもり寝るまでのほとんどの時間を受験勉強に費やした。

 花乃はキャストのせいか毎日帰りが遅く、家でも部屋で練習を重ねているためか、あまり顔を合わせることはなくなった。それでも時折部屋まで運んでくれる紅茶が、二人の大切な息抜きの時間になっていた。

「そういえば、劇って宇治十帖以外の二部までを舞台化するんだってね。キャストってもう決まってるんでしょ? 花乃は誰の役になったの? 女房Aとか?」

 ベッドに腰かけて紅茶のおかわりを注いでいた花乃は、きょとんと顔を上げて、机に向かう佳乃を見つめた。

「あれ? 言ってなかったっけ? わたし、紫の上っていうお姫さまだよ」

「ブ――ッ!」

 佳乃は思わず声まで出して紅茶を吹き出しそうになった。

「む、紫って……ヒロインじゃないのー!」

「うん、そうみたい。でも福原くんにはお姫様いっぱい出るから大丈夫だって言われたよ」

(違う、紫は他の姫とは違うんだよー! 理想よ理想、あの女にうるさい源氏の唯一の理想なんだよ、それを花乃がー!?)

 ごほごほと激しく噎せながら、佳乃は上目遣いで花乃を覗き見た。

 顔立ちは全く同じなのでなんとも評価しがたいが、第三者から人気があるとか聞く限りは問題はないのかもしれない。けれど心配なのは花乃の性質だった。この天然の姉に、そんな大役が果たせるのか?

「えっとね、福原くんは演出監督と、惟光っていう従者さんの役でね。千歌ちゃんは福原くんが頼み込んで、落葉宮っていうお姫様でね、吉村くんは夕霧さんだって。衣装係の夕子ちゃんも女房役で出るみたい。翔子ちゃんは、誰だったかな……明石の姫君だったかな。あ、あと湯浅さんは六条御息所さまで、練習でもすごい上手なんだよ~。源氏役の人も上手いしね」

 花乃の並び立てる名前と役名を覚えている限りの知識と照らし合わせてみる。忍は光源氏の従者……何となくハマリそうな予感はするが、それにしても高澄と千歌がまさか第二部の主役を引き受けるとは意外だった。

 こうやって聞いてみると、それぞれが相当な出番を持っていることになる。例外は夕子くらいだが、あの衣装ではキャストの余裕など残るはずもないから当然だろう。ああ見えて立ち居振舞いのプロの夕子を主役級で起用しないのは勿体無い気はするが。

「うわあ……みんな、相当なものね」

「うん、でも今のところ順調なんだー。わたしもちょっとずつ台詞覚えてきたし……あ、そうだ佳乃ちゃん。福原くんがね、話したいことがあるから、明日の昼休みに中庭に来てくれって言ってたよ」

 ものすごくイヤな予感が胸を過り、佳乃は返事をする事ができなかった。そんな佳乃の様子には気付かず、花乃はしばらく俯いて紅茶をすすっていたが、突然小声で言った。

「佳乃ちゃん……あのね、台風の日……神崎君と」

「ねえ、花乃にお願いがあるんだけど」

 佳乃は机からくるりと向き直り、花乃の言葉をさえぎって微笑んだ。

「髪、切ってくれない?」


 耳もとに響く心地いいはさみの音を聞きながら、佳乃はぱらぱらと落ちていく栗色の髪を眺めていた。たった数センチだけれど、やっぱりこの髪には色々な思い出がある。

 忍に恋をしてからずっと、からだの一部として沢山のことを見てきた髪。伸びたねと言われたのも、抱きしめられたときに頬に触れたのもこの髪だった。

「佳乃ちゃん、やっぱりなにかあったの……?」

 佳乃の髪を切りながら遠慮がちに尋ねてくる花乃に、佳乃は明るい答えを返した。

「何もないよ、ただほら、もう会えないなら――何か、さっぱりしたいって思ってね」

「……もう、会わないの?」

 拓也のことを猛反対した割には、花乃の声音には微妙な不満が含まれているような気がした。

 自分の心が花乃にシンクロして返されているのかもしれないと思い、佳乃が黙っていると、花乃は躊躇ったあと決意したように口を開いた。

「神崎君、11月3日夕方に発つって言ってたよ」

「11月3日って、文化祭の1日目――」

 何を聞いても反応しないようにしていたのに、思わずはっと振り返ってしまった。

「うん、でも佳乃ちゃんは出番ないんだし、抜けられるよ」

 眉尻を垂らし、切なそうに微笑む花乃の言葉に、佳乃は慌てて首を振った。

「行かないよ。会ったってもう話すことないし――それに、大事な花乃の舞台があるじゃん!」

 抱きついてくる佳乃を受けとめて、花乃はどこか寂しげな顔で短くなった妹の髪をなで続けた。

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