ミストレスリーフ・3

「なんで来たんですか」

 カフェオレの最後の一口を飲み終えカップを置いたとき、そのタイミングを見計らったかのように拓也が口を開いた。

 少々油断をしていて思いがけず核心を突かれた佳乃は言いよどむ。

「ええっと……いっ、イチョウの季節だと思ったからよ! この道綺麗だし、見に来てみようかなって。べ、別にこの喫茶店に来ようとか思ったわけじゃないんだから! 何か文句ある?」

 しどろもどろになりながら佳乃が答えると、拓也は相変わらず小さな木の箱をもてあそびつつ気のないようすで言葉を返した。

「別に文句はありませんけど、まだ少し早いですよ」

「それは来てみてわかったわよ。これ、ごちそうさま」

 カップをカウンターの奥に置いて佳乃は立ち上がった。そのとき初めて拓也が顔を上げた。

「もう、帰るんですか?」

「えっ?」

 佳乃は驚いて振り返り、わけもなく赤くなる顔を押さえて呟いた。

「いや……窓から外を見せてもらおうかなって」

「……あ、は、そうですよね。いや、別にこんな事聞くつもりじゃなかったんですが……」

 つられたように赤くなって、拓也はぼそぼそと弁解した。

 まったく妙だった。なにもかもが。ほんの些細なことで感情が激しく揺さぶられてしまう。どうしてこんなに動揺しなければいけないのかと自分を訝しみながら、佳乃は三ヶ月前に座っていた席の窓に身を寄せた。そこからは立ち並ぶ銀杏並木が綺麗に見渡せた。

(やっぱり、秋の眺めが一番綺麗なんだろうな)

 そのとき佳乃が耳にしたのは、小さいけれど確かに響き渡る澄んだ音。それは拓也の持つ木の箱から溢れ出てきていた。――オルゴールだったのか。

「ああ、やっと直った……」

 気を取り直したように拓也は席を立ち、音を奏でる木箱を持ったまま佳乃の傍にやって来た。それを窓際に置いて、フタを開けたり閉めたりしながら音の調子を確かめていた。

「この曲、知ってる。たしかディズニーの」

「When You Wish Upon a Star」


 星にねがいを託すとき

 夢はきっとかなうだろう


 澄んだ音に沿って、聴き慣れたフレーズを頭の中で繰り返す。入学して間もない頃の英語翻訳課題で聴いたとき、たしかそんな和訳を提出したと思う。あの頃はなにも考えず、ただ課題をさっさと終わらせたい一心で辞書をひきひき聴いていたが、今この場所で聴くメロディーは思い掛けないほど強く佳乃の胸に響いた。

「あ、『星にねがいを』? 綺麗な曲ね。これ、苗子さんの?」

「いいえ。エマのオルゴールです」

 ぱたんとフタを閉じると、余韻の波紋は薄れて消える。おかしなほど静かになる。

「あ……そうか、エマさんここに住んでるんだったっけね……」

「――夏に、あなたエマに会ったと言いましたね。あれは本当だったんですか」

 佳乃の胸が、自分でもギョッとするほど高鳴った。不自然に唇が痙攣したのを見られなかっただろうかと危ぶみながら、佳乃は窓の外に目を向けて呟いた。

「何で今更そんなこと聞くの。いるはずがないって言ったのはあんたでしょう。見間違いよ」

 本当は自分の正当性を知らしめて喚き散らしてやりたかった。けれど、エマと約束したことを簡単に破るわけにはいかない。そのジレンマから、答えた声にはやりきれない怒りが混じってしまい、拓也はそれを察知したのか本当に小さな声で囁いた。

「そうですね。すみません」

 二人の間を、何度目かの沈黙が行き過ぎる。窓の外から聞こえる風の鳴く音に混じって、オルゴールの音色がまだ耳の奥でかすかに流れていた。


「忍とは……その後、何かありましたか」

 沈黙を破ったのはまたも拓也だった。予想もしていなかった突然の話題に佳乃は硬直し、うわずった声で答えた。「な、何もないわ。口さえ聞いてない」

「噂によれば花乃さんと文化祭に出るとか。結構図太い奴みたいですね」

「あ、そうなの? ――うん、でも仕方ないよ。あたしがけしかけたんだもん、その責任を取ろうとしてるんだよ。それより、あんたは文化祭参加しないの? 企画とか製作とかさ」

 佳乃が慌てて話題を切り換えると、今度は拓也がふいに目を逸らした。

「ええ、やりません……間に合わないんです」

「何が? 受験勉強が? 余裕じゃないのあんたなら」

 少々皮肉を込めて拓也を見上げると、彼はふいに微笑んだ。

 それは佳乃の心を一瞬で鷲掴みにした。

 痛みと共に感じる感動と快感、理由のない不安。

(わらった……コイツが、あたしに、笑った)


「もう夕暮れですね。だんだんと日没が早くなってくる」

「え、ああ、そうね」

 遠くをさまよう拓也の眼差しは、眼鏡に凝る光で何処を見つめているのか見定めることはできなかった。その横顔を横目で眺めながら、佳乃は今までにはないほどに自然な気持ちで、それを口にしていた。

「イチョウが舞い落ちる頃になったら、またここに見に来てもいい?」


 おかしなほど長い沈黙があった。拓也が佳乃のほうを振り返ったのも、聞こえなかったのだろうかと危惧するような時間がたってからのことだった。

 佳乃が無心に見上げたその顔は相変わらずで、一目でわかる感情は乗っていない。けれどその端々から、何かひどく強いものが滲んでいるような気がした。

「関口さん」

「うん?」

「もう、ここへ来るのはこれきりにしてください」

「……?」

「もう、来ないで下さい」

 即座に押し出そうとした声が喉に引っかかって、震える息だけが唇の隙間から零れた。呆然と自分を見上げる視線を追い払うように横を向いた拓也は、佳乃の答えを待つこともなく続けた。

「京都では余計な真似をしてすいませんでした。それから、あの事は忘れて下さい」

 佳乃は混乱で何のことを謝られているのか見当がつかず、ボンヤリと拓也を見返していた。「あの事って?」

「……僕が京都であなたに言ったことと……やったことです」

 佳乃は何度か拓也の言葉を耳のなかで反芻し、やっとのことで言っている意味を理解した。

 その途端、重石になっていた先程の言葉の衝撃も吹き飛ばすほどの強烈な怒りが膨れ上がった。

「な――何言ってるの!? もう来るなって、そ、それにそんなこと今更!」

「悪かったと思ってるんです。すみませんでした。考えが足りなかったし、僕もあのことは忘れたいと思っています。だからあなたにはもう来てほしくない」

「……じゃ、あ。なんで……あんなこと」

 拓也は眉を寄せ、押さえつけたような低い声で佳乃の声を遮った。

「日が暮れます。送りましょうか?」


 ――ああ、そうか。

 またなんだ。また、あたしはコイツに。


 佳乃は口を噤み、烈しい眼差しで拓也を睨み付けた。「いらない」

「そうですか、では」

 拓也は扉を開けた。軽快なベルの音を合図に、冷たい風が一気に吹き込んでくる。

「さようなら、関口さん」

「……会計がまだよ」

 佳乃はポケットから小銭入れを取り出して、のろのろと中身を全部掌に握り締めた。

 そして、次の瞬間にはそれを全部拓也に向かってぶちまけていた。

「言われなくたって、二度と来るもんか! あんたなんか最低だ……嫌い、嫌い大嫌いよ!」

 飛び出した耳の奥に、わんと鳴り響く金属音。


 色の変わる直前に、全ての葉をむしり取られたイチョウの気分。

 蝶々になる寸前に、キャベツごと踏みつぶされたサナギの気分。

 まるで、世界一好きな人に世界の果てまで突き放されたような気分。


 吐きそうだと思った。それが、家に帰るまでずっと続いた。

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