天使来襲・2

 あの人がきた。

 すべてのカギを持つ天使が、ついに姿を現した。


(エマさんが来た……。何よ、幻でもなんでもなくてちゃんといるじゃないの! アイツ~っ、あたしにあんなひどいこと言っておきながら、なんの弁解もせずに行っちゃうなんてどういうこと!)

 夏、確かにエマを見たと彼に伝えたとき、彼は極寒の冷笑とともに佳乃を突き放したのだ。そのことは決して忘れられようはずもない。それなのに、あの無視するような態度が許せなかった。

 喧騒が舞い戻って、隣で花乃がきゃあきゃあと騒いでいる声も耳に止めず、佳乃は立ち尽くした。頭の中でぐわんぐわんと激しく鐘が鳴り乱れている。

 好奇心の鐘と、不審の鐘と、もう一つ。

「佳乃ちゃあん。さっきの女の子、美術館で見た絵の子だよね? 神崎君と喋ってたような気がするんだけど、わたし、夢見てたのかな? お花のお姫様みたいな女の子だったねえ……」

「夢じゃないっ!」

 佳乃は重いボストンバッグを持ち上げて、やり場のない怒りの入り混じった声で怒鳴った。

「あたしはこの目で見たわよ、ヤツの狼狽を! 絶対何かあるわ!」


「ただいまあ!」

 花乃が開口一番に叫ぶと、すぐにどたばたと慌しい足音をたてて紫乃が玄関まで走ってきて、勢いよく双子たちに抱きついてきた。

「おっかえりー、私の可愛い子供たち!」

「ただいま、ママ。あー、やっとおうちだよ」

「どうだった? 楽しかったでしょう?」

 急き込んで尋ねてくる紫乃の手には、夕食材料のジャガイモが握られていた。包丁を持ったまま突っ込んでこなかったのはいいが触れられた肩や髪はジャガイモの泥で茶色くなってしまい、それを見た佳乃は低く笑ってつぶやいた。「……全然よ」

 据わった目で泥をはたく佳乃を見ながら、紫乃と花乃はぼそぼそと囁きあった。

「花乃、一体どうしたの佳乃」

「わかんない。何かさっきからずっとご機嫌斜めなの。わたし何かしたのかなぁ」

 本人を前にして悩むにしても、内容が筒抜けなのだから無視するわけにもいかず、靴を脱いで玄関に上がった佳乃は振り向きざまにぽんぽんと花乃の頭を叩いた。

「花乃のせいじゃないの。あんの大うそつきのことが許せないのよ」

 考えれば考えるほど、頭に来る。面影を思い出せば黒い服の印象しかないにもかかわらず、英国庭園に咲くオールドローズも恥じるような美少女と、かたやちびっこ童顔天邪鬼な小娘。自分で贔屓目に見てもこれなのだから、他人から見れば比べるまでもないのは明らかだろう。

 あんなものを見せつけられてしまえば、どの口で自分のことを好きなんだと言われようが、もう信じられるはずもない。(むろん言われたことなどないのだが)

「あんな子がいるのに、あたしのことなんか誰が好きになるってのよ! あー! 信じらんない、やっぱりからかわれたんだ、アレは全部嘘だったんだ! 少しでも動揺した自分がイヤーッ!」

 階段の中ほどで地団太を踏みながら、悔しさと怒りに任せて佳乃は絶叫した。



(エマさんは外国人なんだよね。外国から来たみたいなこと言ってたし。髪と目は黒いけど、色は真っ白だし彫りは深めだし。ああ、でもあの日本語うまいよなあ……)

「関口?」

(それに苗子さんとも知り合いみたいだったし、グランパとかどうとか……あれって神崎のおじいさんなんでしょ、てことは家族ぐるみの付き合いとか? そういや一緒に住むとか言って……)

「関口佳乃っ!」

「はっ、はいい!?」

 佳乃は反射的に椅子から立ちあがり、夕子の十八番を見続けているうちに覚えてしまったセリフを知らぬ間に叫んでいた。「すいません、先生の美声に聞き惚れてしまって内容まで理解できなかったのでもう一度……あれ?」

 黒板は真っ黒のままで、教室内には誰一人いなかった。驚いて首を巡らせると、廊下側の窓から首を出している国語教師に気がついた。「鈴木先生?」

「居眠りかー? 進路部に来いって言ってあっただろう、忘れたのか? いつまでたっても来ないから、呼びに来てやったんだぞ。受験生がそんなじゃしめしつかんだろ……ま、このセリフは当校きっての秀才には無用かもしれんがな」

 からからと笑いながら教室に入って来て、佳乃の前の机に腰掛ける。そこでやっと佳乃は旅行前から土曜の放課後に進路部へ呼び出されていた事を思いだした。すっかり忘れていた。

(良かったあ、帰らなくて。カミナリ落とされるとこだった)

「さて、用件はもうわかってるかもしれんが。関口、お前は大学だよな?」

 教師が広げた紙を見て、佳乃は内心舌を出した。

「はあ、そのつもりですけど」

 佳乃の目の前に置かれたのは、旅行前に配られた最終進路希望調査書だった。やる気なさげな字で記された「関口佳乃」のそれは、署名欄以外が綺麗に空白のままだった。

「昨日修学旅行から帰ったばかりで修実のお前に言うのも何だが、お前そろそろ進路を本気で決めないか? 四大進学はいいが、どの大学かくらいは決めてるんだろうな」

(さて……)

 佳乃が適当にはぐらかそうと思いを巡らせているところへ、教師の追撃がかかる。「関口なら、まあ余程の所でない限り大丈夫だと思うんだが、それでも大学は将来に直接関わるところだからな。大学次第で未来が変わると考えりゃ慎重になるのも解るが、そろそろ絞り込まないと」

 絞るもなにも、行きたい大学一つ浮かんでこないのだからどうしようもない。古典や歴史は好きだけれど、将来に渡ってそれだけを勉強して行きたいかと言えばそうでもなく、あくまで趣味の領域だった。

 何を勉強したいのか、それすら見つかっていない状態で選ぶも何もあったものではない。佳乃がそうもらすと、鈴木はうーんと唸って鉛筆を弄びながらつぶやいた。

「そうか、困ったな。だが、このままでは推薦には間に合わないぞ。普段の成績がいい分、もったいないなあ。一般でも勉強は間に合うのか?」

 佳乃はとりあえず苦笑いでごまかすことにした。

「はい、一応6教科は大体頭に入ってるんで、来月までには決めてしまって、それから足りない分の補足を根詰めて頑張ります。一応、模試の結果も問題なかったし」

 鈴木は思いなおしたように一つため息をついて笑った。「そうか、関口はそれができる生徒なんだよな。お前を見てると、日々の積み重ねの効果を実感するよ」

 それきり何も言わず、数校のパンフレットを置いて鈴木は帰って行った。

 佳乃は大きく息を吸って椅子の背に弓なりにもたれかかり、さかさまになった世界を眺めながら指折り数えてみる。

「今日が10月のはじめでしょ……うはあ、あとちょっとしかないじゃない。どうしよう」

 たった2ヶ月で無数の岐路から一つの道を選び出さなければいけない。それは今まで佳乃が考えていた以上のプレッシャーになりそうだった。

(ああ、気が重いなあ……)

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