天使来襲・1

 修学旅行の終わり。

 それは、運命の二ヶ月の始まりだった。


 佳乃は自分の目が何を見ているのか、しばらく確信が持てなかった。それは多分、その場にいた生徒のほとんどがそうだったのだろう、誰もが目を丸くして近付いてくる少女を見ていた。

 煙草の臭いの染み付いたホームを一瞬にして芳しい花の香りで満たし、見るものを自らの国へいざなう、それほどに少女は異質だった。そして、ただ歩く動作すらいちいち絵になりそうな少女につきそっているのは驚いたことに苗子だった。彼女もまた以前のようなエプロン姿ではなく、ロングスカートのスーツに身を包んでおり、目立たないほうがおかしな連れ合いだった。

 ふっと顔を上げた少女を見たとき、佳乃は息を詰めた。

 間違いない、あの目――。


「天使がいる、佳乃ちゃん……」

 隣にいた花乃が夢見るような声音で囁いた。

 誰をも魅了する至極の美しさがその少女にはあった。少女のまとう黒いハイネックの裾広がりのワンピースは、それだけではとても地味で目立ちようもなかった。けれど肩の上で豊かに波打つ黒髪、陶器のように滑らかな白皙の肌、その中に咲く桜色の唇、そして、澄んだガラスと漆黒の黒曜石を融かして混ぜ込んだような、深く煌めく瞳。そのどれもが一寸のズレもなく飾られた様子は、人外の聖なる存在か、もしくは血の通わない人形にしか見えない。

 傷一つない完璧というのはこういうことをいうのだろうと思いながら、佳乃は一瞬奇妙にもこの少女に憐れみを覚えた。全てが異様なほど整ったこの少女は、これほどまでに人目を惹きながらも、そこに実在しているという存在感が全くと言っていいほどなかったのだ。下手をすれば全てを夢で終わらされそうなほどに。

 集められるだけ集めた視線の中、少女と苗子はゆっくりと歩いてきて、立ち止まった。

 拓也の目の前で。


「タクヤ」


 鈴をふるうような声で少女が囁いて初めて、全員の視線がその存在を捉えた。少女の目の前で棒立ちになっている拓也は、魂を抜かれたかの如くただ少女を見つめ返していた。まるで天使に魅入られた青年。フランス映画でも見ているような気分だった――だが。

「本当に本当に本当にタクヤ!? キャーッ、やっと会えたー!」

 次の瞬間、見事な日本語で絶叫して少女は拓也に飛びついていた。バランスを崩した拓也は停車していた車両にがつんと音がするくらい派手に頭をぶつけ、先ほどの佳乃よろしく声も出せない始末だった。

 少女のステータス、神秘性40%ダウン、存在感50%アップ。

「え、エマちゃん、もうちょっとお手柔らかに――あら?」

 拓也にしがみついて離れない少女をたしなめていた苗子は、やや離れたところから茫然と成り行きを眺めている佳乃に気付いて声を上げた。

「まあ、佳乃ちゃん。久しぶりねえ」

「あ……こ、こんにちは。苗子さん……と、エマさん」

 佳乃がなんとか挨拶を返すと、拓也に抱き着いていた少女が顔を上げ、佳乃をその目にとらえた。佳乃はどきりとして少女の反応を見守った。自分のことをまさか覚えているはずがないとは思っていたが、少女は驚いたように目を見開き、佳乃とその横にいる花乃を見た。

 双子というのは時に、良くも悪くも人に強烈な印象を与えてしまうものなのは良くわかっていたけれど、この少女にそれだけの印象を与えてしまったことは、なぜかあまり良くないことのような気がした。

「――アナタ、ダレ?」

「え……あ、あたしは関口佳乃。こっちは姉の花乃だけど……あたし、あなたを美術館の絵で見たんです。神崎のおじいさんが描いた絵」

 必死で思い出してもそれだけを言うのが精一杯だった。けれど少女・エマは急に笑顔になって佳乃に向き直り、弾んだ声で言った。

「見てくれたの、あの絵! 嬉しい、どうもアリがとう!」

 開け放しの笑顔に佳乃は少々まごついた。どこかまだたどたどしい日本語や無邪気そのものの笑顔は、その無機質な外見から通じる女神や天使にしてはえらく子供っぽく映った。

「え、エマ、どうして……」

 やっとのことで口が利けるようになった拓也が、二人の会話を断ち切るように割り込んだ。エマは満面の笑顔のまま喜びを思い出したように再度拓也の首に手を回し、その頬に桜色の唇を寄せた。佳乃は一瞬目を疑ったが、すぐに目線を逸らして心の中でつぶやいた。

(あれは挨拶、外国式の挨拶挨拶あいさつといったらアイサツ)

「今日帰ってくるって聞いて、いてもたってもいられなかったのー! ワタシ、タクヤが旅行に行った日にこっちに来たの。寂しくて眠れなかったんだから!」

 拓也は明らかに狼狽して、至近距離で自分を覗きこんでくるエマと、困ったような顔で微笑んでいる苗子を交互に見つめた。「来たって……まさか、家にですか」

「そうよ、ナエコもOKって! これからタクヤと一緒に住めるのー!」

 苗子が答える暇も与えずに、エマは声高に叫んでもう一度拓也に抱きついた。

「な――何を言ってるんです!」

 突然目覚めたように拓也が叫び、エマを引き離して苗子に詰め寄った。

「どういうことですか! どうしてエマがうちに――いや、日本に来ることになったんです」

 苗子が困惑を浮かべて拓也を見返すのと、エマがすかさず口を開くのは同時だった。

「グランパの許可はもらったよ。絵のモデルになればタクヤに会わせてくれるって言うから、そのためだけにあの絵に協力したの。3ヶ月もかかって、やっと来れたんだよ」

「なんてことだ……あの人はエマまで……」

 拓也は色を失い、手で口元を覆って黙り込んだ。初めて見るそんな表情に、佳乃の心が少しだけ疼いた。これまで彼の家の事情は全く知ることができなかったが、この会話からその片鱗が窺い見えるような気がして、何となく気が引けた。

(なんか……思った以上に込み入った事情みたい)

 石のように強張ってしまった拓也の顔を覗きこんで、エマは哀しげに柳眉を歪めた。

「タクヤ、ワタシといるのイヤなの? 来てほしくなかった? ワタシはタクヤに会いたかった。絶対――までに会いたいって、ただそれだけだったの」

「そんなことのために、こんな危険な真似を」

 そこではっとしたように拓也は顔を上げ、初めてあたりのギャラリーの多さに気付いたのか目を見開いた。慌ててエマの肩をゆるく抱き、苗子を目線で促した。

「とにかく、帰りましょう。ここでは話もできない」

 そして去り際に一度だけ振りかえって、佳乃を見た。それがその日の別れだった。

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