修学旅行・6日目<大阪>

 朝まで、佳乃は窓から空を見ていた。

 星の散らばる深い海が、ゆっくりゆっくり朝陽に呑み込まれていくのを、ずっと見ていた。

 ずっと、漂っていた。心の海に沈んだものを探すために。

 そして、見つけだしたものは。


「……ん、うん? 佳乃?」

 夕子が不意に身動きをして目を覚まし、窓際の椅子に座ってぼんやりとしている佳乃の姿に気付いて身を起こした。「何してるの、あんた……顔まっしろよ」

「うん、星見てたら夜が明けちゃった。やっぱり、東京と違って綺麗ね」

 夕子は目を擦り、眉根を寄せてもう一度佳乃を見つめた。「見てたら? ってまさか一晩中?」

 佳乃は、よく見ないとわからないほど微かにほほえんでいるようだった。夕子はがりがりと頭を掻き乱しながら立ち上がり、無造作に佳乃の向かいの椅子に腰掛けた。

「昨日何かあったんでしょう。あたしで良かったら話しなよ。聞いてあげるわよ」

「うん……」

 佳乃は曖昧に頷いたが、結局何も言えなかった。話したいことは本当にたくさんあるのだが、一つを外に出してしまえば、その柔らかな誘惑に負けた弱音がずるずると芋蔓式に出ていってしまうに違いなかった。それでは一晩考えて出した結論が無駄になってしまう。

「そっか、あたしにも話せないことか」

「ごめん」

「謝ることじゃないわよ。あたしだって人に言えないことあるんだから当然でしょ。ねえでも、全部終わったら話してよ? あたしは先輩の『ゆう乃姐さん』なんだから!」

 そう言って夕子は一人でケタケタと笑い出した。その声につられて、佳乃も吹き出した。

「やっぱ夕子おっかしィ……。さてっ、みんな起こして朝ご飯に行こうか」


 午前10時、最後の観光地、大阪に到着。

 クラスを大阪城まで先導した後、佳乃の所に次々と恒例のメンバーが集合した。しかし今日は忍や拓也といった男子の姿が見えない。

 それもそのはず、今朝の朝食の席で、翔子が突然言ったのだ。

「今日はさ、女子だけで回らない? 話したいこと、いっぱいあるし」

 そうして集まったのが佳乃と夕子、花乃と千歌、そして翔子だった。花乃は千歌に結ってもらったツインテールをぶらぶら揺らしながら嬉しそうに笑った。

「女の子だけでこんな風に集まるの、初めてだねー。何か楽しいなあ」

 変わらずご機嫌の花乃を見て、佳乃は口から飛び出そうになる質問を必死でこらえた。それは佳乃だけではないようで、夕子なども目を爛々させながら花乃をちらちらと見ていた。そんな曰く付きの視線には目もくれず、花乃は両手を振りながら喜々として喋っている。

「今日は大阪城の散策かあ。旅館が京都だから見学時間短いんだね」

「なあんだ、新世界、通天閣、食い倒れたかったなあ」

「夕子は一人で倒れてきなさいよ」

「あはは、佳乃ちゃんキツー! 毒舌はご健在!」

「新世界なんかで倒れたらヤられて売られてバラされて沈められるわね」

「ええっ!? 千歌ちゃんそれ本当!?」

「な、なんてこというのよ千歌ーッ! 恐ろしい偏見持たないで! 花乃も本気にしないのっ」

 女子高生が5人も集まるとかしましいのは当然で、道行く人の目を引いた。話の内容もさることながら5人ともが器量よしということもあったのだが、当人達は会話に夢中で気付くはずもない。

 そんな中、翔子はいきなり口火を切った。

「あたしー、別れちゃった吉村くんと。昨日」

 天守から大阪の風景を存分に楽しんでいた4人は、ぴたりと口を閉ざした。佳乃も一瞬にして凍り付いていた。まさかこんな唐突に、翔子が自らこの話題を持ち出すとは思わなかったのだ。

「……え?」

 こわばった顔で千歌が尋ねる。翔子は聞き分けのない子供に言い聞かせるように顔を近づけて、歯切れ良く繰り返した。「だから、別れたの。かたち的にはあたしが振ったってことになってるけど、正確にはふられたの。そういうことだから」

 あっさりと言って、翔子はまた元の雑談に戻そうとしたが、もう誰も聞く耳を持たなかった。根ほり葉ほり聞かれて収拾がつかなくなったので、翔子はかいつまんで事の顛末を話した。私情は挟まず、ごく客観的に。翔子のこういうところを、佳乃は本当にすごいと思う。

「ええー、まさか、そんなことがねえ……」

 どう言っていいのかわからないと言った風情で夕子が空を仰ぐ。

「結局オトコって、そんなもんなのかな? 可愛いオンナの方が好きっての? むかつくー」

「でも、あたしたちから見ても花乃みたいな子って可愛いもんね。特に頼られてみたい男子からすれば、花乃なんて天使さまさま、お姫様よ」

 千歌が言うと、みんなが頷いた。「そうよねー、花乃を見てると何かもう構いたくて仕方ないの。同じ顔なのに佳乃より花乃の方が圧倒的にもてるって言うのは、そこの違いなのよね」

 遠慮のかけらもない夕子の指摘に、佳乃は非常に腹を立てたが、自分でもわかっていることなので黙っていた。それにしても無神経極まりない親友だ。

(可愛い女の子の方が……)

 その言葉は胸に痛い。昨日一晩中そればかり考えていた。

(あたしと花乃の一番の違い。全てが同じなのに、それだけが人の感情を変える)


「ねえ、さっきから何のこと言ってるの?」

 花乃が不服そうに口を挟む。「わたし、そんなに頼りないかなあ。これでも極力、自分で頑張ろうとしてるんだよ。……そりゃ、佳乃ちゃんにはよく頼るけど」

「そう見えるって話よ。その点では、花乃って得なの」

 少し意地悪じみた声で佳乃が言うと、花乃はぷうと膨れあがった。

「わたしだったら、佳乃ちゃんみたいな女の子になりたいよ。一人で何でも出来て、昔から先生たちにも誉められて、すごく羨ましかったんだから。みんなの期待一身に背負ってて……」

 花乃の言葉で、佳乃は今に至るまでの自分の姿を思い返してみた。真っ先に思い出すのは、自室の机の上の風景。いつも違うページの開かれた問題集と、整理整頓された本棚と、気分転換のための新書。それが自分を作ってきた全てだったように思う。

 それが変わったのが、3年に入ってすぐの頃だった。今まで積み重ねてきたタワー並のプライドが、全部まとめて崩れ落ちたとき――神崎との出会い。

(思えばあいつとの出会いが人生変えたかも……)

 実行委員になって、初めて仲間との連携の心地よさを知って。

 それから、初めての恋とも出会った。

 それまでの見栄も名誉もプライドも要らなくなった。周りの期待も煩わしいくらいに恋におぼれる自分がそこにいた。成績も下がって、将来も疑って、大好きな花乃にまで嫉妬して。そんなところまで陥った自分がひどく滑稽で情けなくて、それなのに、想いは止まらなかった。


 はやく、この泥を洗い落とさなければ。

 もとの強さと潔さを手に入れるために。

 なさけない未練はすべて捨てなければ。


「……花乃は、誰が好きなの?」

 気づけば、口に出して問いかけていた。全員が一斉に花乃に注目する。

「そうよ、神崎君じゃないの? 最近仲いいじゃん、花乃もまんざらでもないんでしょ?」

 夕子がここぞとばかりに問い詰める。興味津々の視線を浴びながら、花乃は丸い目を見開いて佳乃だけを見つめていたが、やがて困ったように微笑んだ。

「えへへ、内緒、って言っとこうかなあ? 佳乃ちゃんもそうだし」

 何かを含んだような花乃の微笑みが、佳乃の目には驚くほど眩しく綺麗に映ったが、それが佳乃の引け目から来る幻なのか、他の誰かによる力なのかは解らなかった。

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