修学旅行・4日目<奈良1>

「おはよう、佳乃ちゃん夕子ちゃん!」

 実に晴れ晴れとした朝を迎えて階下に降りると、レストランの前で花乃が待っていた。

「おはよう花乃」

「バイキングでしょ? 一緒に食べようよ」

 花乃はいつになくはしゃいでいた。この3日ほとんど口を利けなかったことの埋め合わせを一気にしようとしているのか、ずらりと並ぶ総菜を次々につまみながらも喋り続けていた。

「佳乃ちゃんは京都でどこ回ったの? わたしたちは嵐山の方へ行ったの。すごい可愛い舞妓さんと写真撮ってもらったんだよー、佳乃ちゃんも一緒に行けたらよかったのにね」

 佳乃はつかみかけたバターロールの山を崩して危うく床に転がしてしまうところだったし、夕子も皿に取ろうとしたサラダスパを手前にあったドレッシングボウルの中にダイブさせてしまっていた。目の前の二人がその舞妓だったとは、夢にも思っていない。こう、完膚無きまでに純粋且つ鈍感な花乃の反応には舌を巻くほどだ。

「えー、ええと……あたしたちは映画村行ってきたの。太秦の」

「えーいいなあ、楽しかった? どんなとこ? どんなことして遊んだの?」

 佳乃と夕子は顔を見合わせ、沈黙に苛まれた。どんなとことか言われても、行ってもいない場所のことなんかわかるはずがない。

「ど、どんなって、そりゃ……ええと、時代劇の格好したりね――イタッ!」

 迂闊に口を滑らせそうになった夕子の足を踵で踏み躙りながら、佳乃は引きつった顔で微笑んだ。


 またもやバスで移動すること数時間。修学旅行のメッカ、奈良公園到着。

「見てよ佳乃、公園の中に鹿がいる! ナマ鹿よ生シカ!」

「はずかしいわね、大声で叫ばないでよ。ほら、旗出して」

 バスを降りるやいなや大声でわめき始めた夕子に一喝してから、佳乃はゆっくりと辺りを見回した。たしかに公園の植え込みの影や石畳や、至る所に鹿の群がいる。そして佳乃は視線を地面に向けて、わずかに顔をしかめた。気をつけないと、無数に散らばっている鹿の落とし物を踏んで歩いてしまいそうだ。

「東大寺に行くよー、みんな、ちゃんとついてきてよー」

 修実の仕事はクラスの統制をとることでもあった。某はとバスガイドのような旗を振りながら、佳乃達はクラスの先頭に立って歩き始めた。向こうに着くまでは、花乃とも合流できそうにない。

「うーん、いい天気! 今日はホントに観光日和ね!」

 空は雲一つなく、真っ青だった。


「うっわでかー! すごい、でかい、なにこの大仏ー!」

 中学の修学旅行では奈良まで来なかったという夕子は、初対面の大仏を見上げて歓声を上げた。人間が手の指と大差なくなるほどのスケール、さすがは日本最大。これが千年以上も昔の手作りだというのだから、人間やれば何でもできるものなのだ。

「あ、大仏さまの鼻の穴だってよ。くぐってみる?」

 夕子に指さされた柱の穴を見て、佳乃は苦笑した。子供達が笑いながら次々とくぐっている、あれがどうやらこの大仏の鼻の穴の大きさらしい。鼻の穴に子供がすっぽりと収まる大きさと考えれば、常軌を逸するスケールだと実感できた。

「よっしのちゃあん」

 がば、と後ろからいきなり花乃が抱きついてくる。

「ここからは時間に間に合うように各自見学して移動だって。一緒にいこー」

「うん」

 微笑んで振り返った視界を、見慣れた二人の姿がよぎる。

 あっと思った次の瞬間、佳乃と花乃はぽんと優しく頭を叩かれていた。

「や、関口さんズ。俺たちもまぜてよ」

「福原くん、それに神崎くんも。うん、一緒に行こう」

 振り返った花乃が笑って請け合うが、佳乃は何故か非常に複雑な気分に苛まれた。

 忍と一緒は文句なく嬉しい、けれど神崎がいるのはちょっと困る。

 そして、花乃の存在。

(あたしまた、花乃に……。何なの、これ。どうしてこんな気分になっちゃうの?)

 女の勘はとんでもなく鋭いということを、佳乃はまだ知らなかった。


「夜にライトアップするとき、あそこの窓が開くって知ってた?」

 大仏殿を後にするとき、夕子に借りたガイドブックを片手に、忍が自慢げに振り返って言った。夕子は気を利かせたつもりなのか千歌と一緒に行ってしまい、今はいつかの美術館でのメンバー、要するに佳乃と花乃、忍と拓也という組み合わせになっていた。

「えっ、もしかしてあそこの窓から大仏さまの顔が見えたりするの?」

「ご名答! すっごい不思議な風景らしいぜ」

「うわあ、見てみたいなあ~」

 佳乃は少しだけ歩調をずらして、三歩ほど後ろへ下がった。こうやって見ていると、盛り上がる忍と花乃はまるでカップルだった。思わず、妙な笑いがこぼれた。

(何を客観的に見てるんだか。悔しいなら、あたしから話しかければいいのに)

 そうは思うものの、無理なことだった。花乃に対してこんな感情を抱くことだけでも、とても許されないことだ――悔しいとかずるいとか、いなければいいのにとか――そんなことを少しでも思ってしまう自分が本当に嫌いだった。最低だと思った。世界で一番醜い女だと、思った。

 胸が痛い。こころが、痛い。

(だめだ……これ。本気で落ち込んできちゃったよ……)

「関口さん」

 いつの間にやら、拓也が佳乃の隣を歩いていた。そして顔色一つ変えず、前の二人の後ろ姿を眺めたまま小声で話しかけてきた。「いいんですか、見ているだけで」

 佳乃は俯いたまま低い声で唸った。やっぱり知っているのだ。

(もしかしてコイツ、あたしのこと全部知ってるんじゃない。花乃でさえ知らないことも。そのくせそれを人に言いふらしたりしないし、思えば最初から何を考えてるのかさっぱりわかんない。ああ、だから余計に苦手なんだよ……)

「あとで後悔しますよ?」

「……うるさい」

 堪らず佳乃は拓也を睨み付けた。「余計なこと言わないでよ、人の勝手でしょ」

「おひとよし」

「!!」

 佳乃は激昂し、ほとんど走るようなスピードで拓也のそばを離れた。

(なによアイツ、やけに絡んできて! むああああ、腹立つー!)

「お? 佳乃ちゃん、急いでどうしたの? 時間やばい?」

 忍が、猛スピードで隣にやってきた佳乃を見て怪訝な顔をする。そんな表情に小さく胸がうずくのを我慢しながら、佳乃は低い声で答えた。

「別に。ただ早く行きたいだけ」

 もう何も見たくないだけ。

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