修学旅行・4日目<奈良2>
「ここにも鹿がいる……」
春日大社に着いてすぐ、灯籠の立ち並ぶ参道で鹿を見つけて佳乃は立ち止まった。一頭だけ、角のない雌鹿が灯籠の影から佳乃をじっと見ていた。群からはぐれてしまったのだろうか。
「あたしとおんなじね」
佳乃はため息をついた。今、佳乃は明らかに迷子になっていた。
(一人で先に歩くんじゃなかった。ここってばイヤっていうほど広いんだもの)
気付いたときには佳乃は一人で、他の制服の入り交じる団体の中に突っ込んでしまっていた。慌ててそこを抜け出したものの、見慣れた制服はもうどこにもなかった。
(まあいいか、そのうち会えるよね)
不安な気持ちを押し隠すように、佳乃は参道の脇に座り込んだ。一人の方が気が楽かもしれない、と無理に考えるうちに、佳乃は入学したてのころを思い出していた。
(あの頃は特別な人なんて、花乃以外にはいなかった。こんな風に心を煩わせることなんて何もなかったのに。親友も、仲間も、好きな人も……)
毎日がただ平坦に過ぎていった。それで充分だと思える潔さがあった。
(今は違う。あたしはずるい、きたない、ただのみにくい女だ)
恋は泥だらけ、とはよくいったものだ。これほどぴったりくる言葉を佳乃は知らない。
(あたしはあとどれだけ汚れたら気が済むのかな……いやだな……)
これ以上自分を嫌いになりたくない。勉強が出来て、いい子だといわれて、そんな自分を誇りに思っていたあの頃に帰りたい。
佳乃の方にすり寄ってくる鹿を見て、佳乃はぽつりと呟いた。
「シカさん、群に帰りたい……?」
あたしは帰りたい。理想の自分に戻って、想う人の元へ行きたい。
でもそれはもう――叶わない夢かもしれない。
「ねえねえ、どこから来たの?」
やけに粘っこい声で思考を中断されて、佳乃は胡乱な目つきで顔を上げた。そこには見たこともない制服の男たちがいた。おそらく佳乃と同い年くらいだろう、イントネーションは間違いなく東京のもので、茶髪金髪ロン毛ピアスと、佳乃の嫌いなものフルコースがずらりと並んでいる。
(何こいつら……)
「あ、この制服純泉堂じゃね? アタマいーとこ。ダチの女がこの制服着てた」
これの友達を彼氏に選ぶくらいなら、そりゃよほどバカな生徒だなと思ってみる。
「じゃあ東京の子じゃん。偶然だねー、俺らも東京から来たの」
どうせ団体行動を抜け出したくせに暇をもてあましていたんだろ、と思ってみる。
「もしかして迷子なの? かわいー! オレらが一緒に捜してあげよっか」
そこでようやく佳乃は口を開いた。こんなのの暇つぶしになるのはまっぴらだ。
「いらない」
「そう冷たいこといわないでさあ~」
佳乃は立ち上がって、じろりと彼らを眺めた。5人。これくらいなら、囲いを突破すれば走って逃げられるかもしれない。口車を駆使して切り抜ける手も考えたが、これ以上無駄な労力を強いられるのが煩わしかった。
「悪いけど、あたし委員やってるの。忙しいから、これで」
「待てよ、オレたちヒマしてんだ、一緒に遊んでよ」
「しっつこいわね! どいてっ!」
押しのけて抜けようとしたが、佳乃が思っていたよりそれはずっと困難だったらしい。男たちはびくとも動かなかったのだ。ようやく自分の窮地に気付いて佳乃が青くなったとき、その声は突然響いた。
「オレの連れに何か用ですか」
囲いの向こうに、息を切らした忍が立っていた。
金髪やピアスやらでド派手な乱反射を繰り返す男達の中で、何の飾り気もないすっきりとした長身痩躯の彼は、佳乃の目に喩えようもないほど眩しく映った。
「捜してたんだ。やっと見つけた」
荒い息を繰り返し、忍は男たちを一瞥した後、佳乃に目を向けた。
佳乃は動けなかった。自由を奪われているわけではなかったけれど、男たちの出方や、忍の行動に対する戸惑いや、そんなものが入り交じって急に怖くなった。
そんな佳乃をじっと見つめたまま、忍は手を差し出した。そして、呼んだ――
「佳乃!」
地面に縫い止められていた足が解け、忍を注視していた男たちの囲いを飛び出して、佳乃は腕の中に無我夢中で飛び込んだ。肩口に額をぶつけるぐらい勢いよく飛び込んだせいで、しばらく頭がくらくらした。
「なんだ、オトコかよ。けっ」
人目を気にしてか、佳乃に絡んでいた男たちはぞろぞろとやる気のない足取りで去っていった。彼らの挑戦的な視線を毅然と見返しながらそれを追いやった忍は、佳乃の耳元で小さくため息をついた。佳乃も喧嘩沙汰にならなかったことに心底ほっとして、忍を見上げた。
「福原くん、ありがとう。よかった、喧嘩にならなくて」
なんとか微笑んでみせた佳乃を、忍は珍しく憮然とした表情で見返した。
「一人で先々行くから、こんなことになるんだよ。もう、目が離せない……」
「え?」
佳乃は耳を疑った。今の言葉を思い返すうち、佳乃はもう一つとんでもないことに気がついた。
佳乃の背中に回されたままだった忍の手に、確かに力がこもっていた。
「あ、あの。福原くん、手、手っ」
「ごめん」
小さく謝りはするものの、忍は囲う腕を緩めようとしない。その声に溢れるものを知ったとき、佳乃は自然と目に浮かんでくる涙を止められなくなってしまった。
(この人、ホントにあたしを心配してくれている……)
急いで走ってきたからか、佳乃の頬に直に伝わってくる鼓動は駆け足の速さだった。同じ速さに共鳴していく心の音。佳乃は忍の背に手を回し、頭を預けた。
「……もうすこしこのままで、いい?」
「――うん」
周囲に見慣れた制服が増えてきはじめたことにも、二人の目には入っていなかった。
(恋を、おしえて……)
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