修学旅行・2日目<京都5>

「すごい音がしたんですけど……うわ、痛そう。大丈夫? 立てる?」

 そう言って、まだ地面にへばりついて身動きのできない佳乃を抱き起こす。夕子は思わず口笛を吹きそうになったが、黙って佳乃の様子を見守った。佳乃は顔を手で押さえ、必死で顔を見られないようにしながらもおとなしくされるがままになっていた。

(う、いた、泣いちゃダメ、いだい、泣いちゃダメ……っ)

 顔が痛い。あまりにも痛い。佳乃は痛みのあまりにじんわりと滲んでくる涙を必死の思いでこらえた。今泣いてしまえば化粧が剥げ、この醜態を最も見られたくない人物ベスト3の前で正体をさらすことになる。それくらいなら死んだ方がましだった。

「えろう、すんまへん。この子はまだ新米で、おこぼに慣れておまへんねん。堪忍しておくれやす」

 佳乃は顔を上げ、唖然として夕子を――いや『ゆう乃』を見つめた。どこで覚えたのか、イントネーションまで京都弁に限りなく近い猫撫で声でころころと笑っている。なんだこの丸太のような神経は。

「舞妓さんになりたてなの? ああ、それで。痛かっただろ、大丈夫?」

「は――へ、へえ。す、すい、すんません、どす」

 佳乃は慌てて忍から飛び離れ、背を向けて着物の埃を払った。破れてはいない、かつらも無事、顔も流血沙汰にはなっていない。それを確認して佳乃はようやくほっと息を付いた。その気が緩んだ瞬間に、忍はひょいと佳乃の前に回って間近で顔を覗き込んだ。

「あ、うん、大したけがはないみたいだな、良かった。それにしても、舞妓さんなんて初めて見たよ。かーわいー……俺たち高3なんですけど、同い年くらいかな?」

 忍に穴が開くほど見つめられて、佳乃は思わず鼻を押さえた。これで鼻血でも出ようものならもう救いようがない。顔色を白粉のせいで見られずにすむのが今のところせめてもの救いだった。

「この子はまだなりたての16どす。うちは18になったとこどすねん」

 夕子がフォローして割り込み、今のうちに落ち着こうと横を向いた佳乃は、すぐそこに拓也がいたことにやっと気付いた。忍と一緒にいたのだからそれは当然なのだが、彼は奇妙なものでも見るように眉根を寄せ、じっと佳乃を見つめていた。佳乃は仰天し、あわてて顔を背ける。

(……!? まさか。まさか、よね)


「福原くん?」

 人混みの中から花乃と千歌が顔を出す。「どうしたの、突然いなくなって……あっ、舞妓さんだー!」

 花乃の出現に、佳乃は息をのんだ。さすがにこのときばかりはもうダメだと覚悟を決めた。相手は生まれてこの方、一度も離れたことがない双子の片割れなのだ。いくら別人に見せようとしても、わからないはずがない。

 ……ところが、その心配はどうやら無用だった。

「かわいい、きれい~! すごいなあ、憧れちゃうなあ、いいなあ。あの、みんなで一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」

「えっ……へ、へぇ」

「わあ、ありがとうございますー! やったあ♪」

 花乃は、佳乃と同じ高さから自分と同じ顔を眺めているにもかかわらず、疑わしい顔ひとつせずにはしゃぎ回っていた。花乃が目を輝かせて見ているのは、紛れもない、双子の妹とその親友なのにだ。

 佳乃はほっとするやら呆れるやらで、ようやく身体の力を抜いた。

(なんだ、大丈夫だった。花乃にばれないなら、他の誰にもわからないよね、良かった……)

「じゃあ、並んで。俺タイマーセットするよ、いいー?」

 忍がカメラを持って人だかりの前に出る。花乃はあっと声を上げて辺りを見回した。

「待って、あの……佳乃ちゃん、来ないかな。せっかくだから、一緒に写りたいよね……」

「花乃」

 思わず呟いてしまったあとで佳乃は慌てて口を押さえた。花乃は振り返り、怪訝な顔で「あれ?」と言いながら辺りを見回した。

「気のせいかな? 今佳乃ちゃんの声が聞こえたみたい……」

(あ、あたしはここでーす)

 心の中で挙手して、佳乃は感動に潤みそうになる目頭を押さえた。あんなにひどいことを言った自分を、それでも待っててくれる花乃。今はあまりにも恥ずかしいので名乗れないが、帰ったらまっさきに謝りにいこうと佳乃は心に決めた。

「うーんホント、残念だな。せめて出来上がった写真は見せてあげたいね」

 イヤもう二度と見たくないとは思うものの、佳乃は忍の心のこもった言葉に感激して泣き出しそうになった。さっきの痛さも忘れて木履でスキップをしそうになり、夕子につねられる。この沈没と浮遊の落差は我ながら驚異だった。これが恋の力というものなのだろうか。

「じゃあ撮るよ、並んでー、はい」

 浮かれていた佳乃の横に、拓也が入り込む。佳乃は些かどきりとしたが、気を取り直して笑顔でファインダーを見つめた。気のせい、気のせい―――

 ところが、気のせいだと思ったのは大きな間違いだった。

 シャッターが降りるその瞬間、隣の人物が、佳乃の耳にだけ届くように囁いたのだ。

「何をやってるんですか、関口さん」


 なん

 で?

 ???


 絶句、禁句俳句節句四苦八苦。

 唖然、呆然超然飄然自然大自然。

 言語能力すら頭から吹っ飛び、佳乃はただの木偶の坊のごとく立ちつくした。

(なんで?)

 18年間一緒だった花乃にも判らなかったのを、どうしてコイツが。

 コイツがコイツがコイツが以下略。

(これが怖かったんだ……)

 一番恐れていたのは。

 忍に知られるより花乃にばれるより、一番知られたくなかったのは。

(よりにもよって! これって、こいつに弱みを握られたってことじゃないの!)

 佳乃は転倒することすら綺麗に忘れ去ったような豪速で、その場から逃げ出した。


「ばれたじゃない、ばれたじゃないの、ばれたじゃないのよ夕子――ッ!」

 高級呉服を引きちぎりそうな勢いで、佳乃は着ていた着物を脱ぎ捨てた。怒りにまかせて力いっぱい拭った唇から濃い紅が頬まで伸びて、まるで鬼女の形相だと夕子は思った。

「どうしてくれんの、よりにもよってアイツよ、神崎よ!? もうお終いだわ!」

 この世の終わりのような悲哀をおびた声で叫んで、佳乃は恨みがましく夕子を睨みつけた。

「え、ていうかあたしのせい? あんたが勝手に転んだのが原因じゃないの」

 言われてみればその通りだったりするのだが、ただでさえ興奮していた佳乃は激昂してタオルを投げつけた。

「もうあんたなんか知らない! 余計なことばっかりして! あたし帰るっ!」

 夕子を残して佳乃は洗面所に走り、全力で化粧を落とした。隅から隅までチェックした後、手落ちがないことを確認してひとりで旅館へ帰った。まだ3時も回っていなかった。

 実のところ、慣れない木履のせいで指の付け根が痛くて立っているのも辛かった。教師に見つからないようにさっさと部屋に引きこもった佳乃は、自力で布団を敷いてその中にうずくまった。

(どうしよう。アイツに頼んで黙っててもらうなんて絶対イヤだし。じゃあどうしようもないじゃん……。ああ、今日の晩にはみんなに知れ渡ってるんだ……)

 その時の、みんなの反応を考える。怖いくらい寒気がする。

(考えたくない! もう寝るっ! 全部忘れて、寝るんだ!)

 そのまま、佳乃は夕食もすっぽかして眠り続けた。

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