修学旅行・前夜

 次の日、佳乃はまだ少し浮つくような感覚の残る頭を抱えて登校した。どうも完全に風邪を退治したというわけではなさそうだったが、実行委員にとっては旅行直前の今が正念場だ。一番忙しい時期を他の委員達に任せきりにするのは責任感の強い佳乃にはできそうになかったし、なにより拓也に借りを作る形になるのだけは承服できなかった。

「良かったね、元気になって」

 登校途中、花乃がにっこりと微笑んで佳乃の顔を覗き込む。佳乃は照れ隠しに腕を組んで含み笑いをした。

「まあね、ほらあたしがいないとみんな困るからね。仕方なくよ、仕方なく」

 などと言いながらも思わず頬の筋肉が緩んで、佳乃は慌てて顔を押さえた。

 本音を言えば、学校へ向かうこの一歩一歩が、忍に会える喜びで弾んでいく。地面を踏むのと同じテンポで心がどきどきと高鳴ってくる。学校へ向かうだけで、こんな高揚した気持ちになるのは初めてだった。

(まさか、だって、福原君があたしを見舞おうって言ってくれるなんて。うう、だめだ、嬉しい! ちょっとくらい期待してもいいのかな――ああ、だめだめやっぱりそんな)

 真一文字に結んだ唇をぷるぷると震わせながら赤くなったり黄色くなったりしている佳乃を見て、花乃は小さく笑って頷いた。

「うん、仕方なくね。副委員長だもんね、あとちょっとの委員会、頑張ろうね」

 本当に嬉しそうに笑う片割れが愛しい。佳乃は花乃の腕にその手を絡ませて、大きく頷いた。


「おはよー!」

 佳乃が珍しく大声で挨拶しながら教室に入ってくると、夕子が待ちかねていたように立ち上がってにやりと笑った。

「やっぱり来たわね佳乃。さすが、お見舞いの効き目は抜群ね」

「な、何言ってんのよ! ふんだ、勝手に言ってろー」

「うわ何さその態度。……ふむ、じゃあこれ捨てちゃおうかな」

 夕子がもったい付けながら机の中から取りだしたのは、3日分の授業のノートだった。目の前に切り札を取り出された佳乃は、ぐぬうと唸ってから両手を差し出した。

「うう、夕子様、どうもありがとうございました」

「よろしい。今日も放課後に委員会だって。前の集計はあたしと湯浅と神崎君でやっておいたから。しっかし、湯浅栞! 最強ねあの女。噂には聞いてたけど、ホント、やりにくいったら」

 辟易した様子で肩をすくめる夕子に、佳乃は適当に相槌を打った。栞は拓也のクラスパートナーだが、何故かわけも分からず一方的に敵視されている上に、花乃を侮辱した件で喧嘩して以来、佳乃とはものすごく険悪な状況にあった。普段委員会では双方眼中にもないような顔をしているが、陰ではどんなことを言われているやら知れたものではない。べつにいいのだが。

「神崎かあ、今日来てるかな……」

 彼の名前をきくたび、前のような煮えたぎる憎悪と闘志は湧いてこなくなったが、その代わり心の中にそこだけ奇妙な存在感を漂わせて居座るようになってしまった。

 妙に気になる、謎ばかりの変な奴。

 それが今の佳乃にとっての、神崎拓也だった。


 土曜の放課は早い。さっさと帰り支度を整えた佳乃と夕子は、修学旅行前最後の委員会のために会議室へ向かった。出席のクラス名を黒板に書いていると、最前列に座っている花乃と忍から声がかかる。

「あ、佳乃ちゃん学校来れたのか。良かったなあ」

「うん。昨日はありがとう。ケーキ、美味しかったよ。あれ? ねえ、神崎は?」

 栞は教室の隅の方で憮然と座っているが、肝心の委員長の姿が見あたらない。

 忍は何とも言えないような顔をして、微かに首を傾げた。「うーん……なんか、昨日帰り際にしばらく休むって言ってた。なんか神妙な顔してたから、理由は聞いてないんだけど」

「そう、なの。ふうん……」

 少々気抜けして、佳乃は視線を落とした。ただのずる休みか。それとも、また何かあったのだろうか。詮索しようとは思わないけれど、知りもしない可能性を考えるときりがない。

(なによ、今日はお礼言おうと思ってたのに。前のことも、謝ろうと思ってたのに……)

 やっと素直になろうと振り向いたら、アイツはいない。とことん相性が悪いのかもしれない。

(一人でむりやり謝っといて、逃げるなんてずるいわよ。二度と口きかないって言うのは訂正してあげるから、さっさと来なさいよね、もう)



 結局、拓也は修学旅行前日も学校に来なかった。

「まさか旅行にも来ないつもりかしら。実行委員長のくせに!」

 花乃とお揃いで買ってもらった旅行カバンに、バスタオルと着替えを詰め込みながら佳乃が一人ごちていると、微かに開いたままだったドアをこつんと一回だけノックをして花乃が部屋に入ってきた。「用意できた? 佳乃ちゃん」

「まだ。もー、荷物が多すぎて洒落になんない。こんなの持っていけないよ」

「わたし明日の朝に超特急便でホテルに送るよ。紅茶の葉がいっぱいあって困っちゃうの」

 佳乃は絶句して花乃を見上げた。本気か。いや本気だ。

「か、花乃。やめときなよ。向こうには宇治茶という名産のお茶があるんだから。それにほら、せっかくの花乃の紅茶は家に帰ってきたときにゆっくりと飲みたいし」

 花乃は唇を尖らせたが、言われたことに悪い気はしないのかすぐに頷いた。

「うーん、そっかー、わかった。それよりさ、ママが言ってたことホントかな。修学旅行で恋が芽生えるって!」

 佳乃は再び脱力して、湿気た目つきで花乃を見上げた。花乃は目の色を変えて明らかにうきうきしている。くそう、あたしの花乃に余計なことを吹き込みやがって、あの母親は。

「うそよ。ウソに決まってるでしょ、ああいうのは、別世界のことなの」

 花乃はしゅんと悄げた様子で呟いた。「そうなの? なあんだ、やっと恋っていうのを体験できるかと思ったのに。残念だね、佳乃ちゃん」

(うっ!)

 佳乃は口を噤んだ。花乃にも言わずに、佳乃は現在進行形でその「恋」をしているのだ。

(ああ、そっか。そうだよね、あたし今好きな人いるんだ……)

 父親が話した京都でのロマンスをふいに思い出して、佳乃は何となく浮き足立ってしまっているらしい自分に困っていた。

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