黒い天使と拓也・3

 美術館で波乱に満ちた昼食をすませて今後の予定に詰まると、新しい物好きの夕子の熱烈な主張で、7人は電車でできたばかりの複合施設に足を伸ばすことになった。

 乗り換えのために降りた駅で、佳乃は電車の待ち時間が15分あることを確認してから言った。

「あたし、ちょっと売店行ってくる。飲み物切れちゃった」

「あ、わたしも行こうか? 佳乃ちゃん」

 花乃が振り返るが、佳乃はもう駆けだしていた。「ううん、いい。ホームで待ってて!」

 ところが佳乃は、独りになるとてんでダメなのを自分でまだよく知らなかった。何がダメなのかと言えば、本当に三半規管が機能しているのかと思うくらい方向感覚があやしいのだ――要するに、ものすごい方向音痴なのだった。もう何度も来ているはずのこの駅も、来るたびに見覚えだけはあるのにどこをどう進めば目当ての場所にたどり着けるのかは思い出せない。そして、自分の無謀さに気付いて戻ろうときびすを返せば、帰り道まで判らなくなっている。

「やっちゃったよ……」

 途方に暮れて佳乃は一人人混みの中に立ちつくした。ざわざわ、どやどやと喧噪だけはひときわ大きく聞こえるのに、どこを見回しても目当ての店らしきものは見あたらない。

(このままじゃ電車の時間に間に合わないよ……どうしよう)

 焦った佳乃は、鳩のようにきょろきょろと首を動かしながら無意味に駆けだした。売店でもホームでも見つかってくれればそれでいい、とりあえず迷子放送のお世話になるのだけは勘弁してほしいと思った。そろそろ夕子が佳乃の方向音痴ぶりを思い出した頃だろうか。

「たっ」

「あっ……」

 どん、とすれ違いざまに行き交う人と肩がぶつかった。ごめんなさい、と言いながら振り返った佳乃は、一瞬自分の目を疑うことになった。目にするだけで、深い薔薇の香りが一面に広がる――

(え……?)

 天使だった。

 それは間違いなく、絵の中から抜け出した黒いドレスの天使だった。

 少女は風を感じさせる仕草でかすかに首を廻らせて佳乃を一瞥し、雑踏の中に静かに紛れていった。それは本当に一瞬のことだった。けれど佳乃は、雑踏の中で一人時を止めたように呆然と立ちすくんだ。

 白を通り越してどこか蒼く透けて見えるほどの肌、アンティーク人形のような顔立ち。肩で波打つ黒髪、裾のふんわりと広がった漆黒のサマードレス。少女は絵の中に翼だけを残したまま抜け出してきたようにしか見えなかった。

(今の……今のって、見間違い? ううんそんなはずない、でも、だって……)

 逡巡は短かった。佳乃は息を吸い込むと、薔薇の残り香をたどって少女を追った。駆け下りる階段に電車の発車ベルが響く。たん、とホームに飛び降りた佳乃の目の前で、扉が音を吐き出す。

 閉まりかける扉。その向こう。佳乃は、我知らず大声で叫んでいた。

「―――エマさん!」

 扉が完全に閉じる、二人の間の空間が仕切られる、その一瞬に。

 彼女は確かに振り向いた。その深い海の色の瞳で、佳乃を見た。

(振り向いた―――振り向いたわ!)

 走り去った電車の追い風を受けながら、振り向いた彼女の瞳に自分が映ったのを、佳乃は確信していた。


 まだ夢でも見ているような気分で階段を上がったとき、驚くべき声が佳乃を迎えた。

「関口さん? どこに行っていたんですか、みんな手分けして探していますよ。もう電車は行ってしまいましたし……」

「神崎拓也」

 驚きはしたが、いつものような嫌悪感は抱かなかった。それどころか、今二人で会えて丁度よかったと思った。彼女のことを話さなければ。だが、二人きりだということを意識すると、妙に居心地が悪い。

「行きますよ、まったく、あなたという人は賢いんだか抜けているんだか――」

「待って、話が」

 拓也が怪訝な顔で振り向いて面と向かった瞬間に、佳乃は固まった。

「……何ですか?」

 言いにくい。ものすごく言いにくい。

(す、すごいお節介なことをしようとしてるかも、あたし。よく知りもしないのに。しかもコイツ、なんか他人に干渉されるのすごい嫌がりそうなタイプだし)

「……何なんですか」

「た、たいしたことじゃないんだけど――」

 佳乃は唇を噛んだ。そして、思い切って口を開く。

「エマさんがいる。ここに。あたし、さっき会ったもの」

 拓也は、何一つ表情を変えることなく佳乃を眺めていた。その目はあの絵の天使と同じくらい無機質で、佳乃は苛立った。

「聞いてるの!? エマさんを見たのよ、ここにいたのよっ!」

 突然拓也は声を上げて笑い出した。佳乃は目をぎょっとして眉根を寄せた。

「何がおかしいの。エマさんてあんたの知り合いなんでしょう?」

 拓也は笑いを止めて顔を上げ、佳乃を鋭い目で睨み据えた。

「おかしなのはあなたでしょう。絵の幻にでもとりつかれたんですか?」

「な、に言ってんの。あたしはたしかに――」

「いるはずがない。何も知らないあなたに、どうして彼女だと断言できるんです。余計な口出しはしてほしくありませんね。迷惑なだけです」


 突き放された。それも思いっきり。もう手の届かないところまで。

 判っていた。それくらい。こういう奴だということは。

「……あ、そう」

 頷きもせずに背を向けた拓也の背中に向かって、佳乃は怒鳴った。

「お望み通り、あんたとはもう二度と口を利かない。……だいっきらいよ!」

 自分の方向認識能力も忘れて、佳乃は駆けだした。もう一秒でも、アイツの顔を見るのは嫌だった。わざわざ親切に口にしなくても、拓也を嫌いだというのは当然のことなのに、なぜ言ってしまったのだろう。今思えば負け惜しみにしか聞こえなくて、ますます情けなかった。

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