黒い天使と拓也・1

 午前中の予定は集合場所の目の前にある美術館鑑賞。さすが進学校生、ひと味違う遊び方、と言いたいところだが、実際の発端は花乃の一言からだった。

『わたし、U公園の美術館行きたいなあ。あそこの喫茶店のケーキがすごい美味しいんだって』

 この言葉に全員が脱力し、しかし誰も逆らうものはいなかった。忍がなし崩し的に7人分のチケットを買いに行き、残った6人は誰ともなく入り口の大看板を見上げた。

「“国際アートフェスティバル、国内外から集められた新進気鋭の現代画家の作品約130点を展示”。ふむ、これがどうやら特別展みたいね」

「シンシンキエイってなあに?」

 進学校生とも思えない発言をする花乃に、夕子が返す。

「将来有望な才能溢れる若者ってことじゃないの」

「若者とは限らないでしょう、シニアのアマチュアだっているんだから」

「ま、それはそうですね……」

 佳乃の反論に、珍しく拓也が同調した。佳乃は訝しく思ったが、入り口で忍がチケットを振って手招きしたのでそのまま美術館に入ることにした。自動ドアをくぐり抜けると、ひやりとした冷たい空気が直射日光で火照った肌を冷ましてくれる。

「うわあ、涼しい! やっぱ人少ないとこって冷房きいてていいわねー」

「もう、夕子ったら……」

 広々とした石造りのホールには、午前中ということもあってあまり人はいなかった。

「話しながら鑑賞するわけにもいかないし、各自で好きなとこから見ていこうか? 集合はホールに12時半ってことでOK?」

「はあーいっ」

 小学生のような乗りで解散し、佳乃は手近にいた花乃と夕子と一緒に回ることになった。3人とも絵には造詣が深くないわりに、自分の好みだけはうるさくこだわるタイプなので、自然と素人目の品評会のような観賞になっていた。

「この絵、かわいい! いいなあ」

 花乃が指さしたのは、外国の農村らしい小さな風景画だった。淡い色彩で広がる麦畑に、遠く煉瓦の家がぽつんとあり、煙突から白い煙をたなびかせている。何とも穏やかなほのぼのとした空気は、花乃のそれと全くよく似ていた。感性も類を呼び合うものなのか、などと佳乃が感心していると、向かいあわせた壁の前で夕子が声を上げた。

「えー、こっちの方がいいって! こう……大胆で直線的って言うか、情熱よ情熱!」

 意味不明のことを喚きながら夕子は大きな抽象画の前に立って手を広げた。目に痛いほどの原色を使って好き放題描き殴ったような絵で、佳乃は何も言えず首を傾げた。これも感性が呼んだ結果だとすれば、夕子は相当奥の深い人物ということになる――もともと掴みにくいヤツだとは思っていたが。

(やっぱ夕子ってわかんないわ……)

 肩をすくめて、佳乃が一足先に次の展示室に足を踏み入れたときだった。

 正面に、黒い天使を見た。


 そこは天上なのか地上なのか、あるいは地獄なのか。世界に色はなく、明るさも暗さも感じられない。白と灰茶の合間を、とても油絵とは思えないような見事なグラデーションが透き通って、その世界に白い羽が――唯一その羽だけが純白に輝きながら――舞い散っていた。そしてそこには、浄化の白翼をその身に携えながら、漆黒のヴェールを纏い、どこか無機質な瞳で遠くを見つめる天使がいた。

(大きな絵……すごい、綺麗……)

 引き寄せられるようにふらふらと絵に近づいて、佳乃ははっとして足を止めた。絵を見上げて立ちつくしている後ろ姿は、どうやら拓也のようだった。おそるおそる背後からその横顔を覗き込むと、彼はまるで天使に魂でも吸い尽くされたかのように呆然としている。こんな姿は初めて見た。声をかけようにもかける言葉が見つからず躊躇していると、拓也は絵を見上げたまま独り言ほど小さく呟いた。

「――エマ……? まさか、どうして」

(エマ?)

 視線を走らせて、佳乃は巨大な絵の横に添えられた出品者カードを捉えた。絵の題名は『Emma』、この天使の名前だろうか。黒いヴェール、黒い瞳、黒い髪。天使にしてはいささか憂いの深すぎる表情は、近くで見上げると人間離れした威圧感を感じさせるほどに美しかった。

「すっごい、綺麗ね」

 思わず佳乃がため息をつくと、拓也は傍目にもわかるほど肩を痙攣させて勢いよく振り向いた。

「い――いつのまに!」

「そんな驚かなくてもいいじゃないの。この絵を見てたんでしょ? 知ってるの? この絵」

 拓也の答えを待つ間に、佳乃は出品者名を横目で探した。拓也の答えはなかったが、それは題字のすぐ下にあっさり見つかった。神崎正造。

「かんざき・しょうぞう? あれ、偶然じゃない、同じ名字」

 茶化しながら振り向いて拓也を見ると、彼は笑ってはいなかった。意外にもまっすぐ視線を返されて、佳乃は急に気まずくなり口をつぐんだ。何か妙なことを言ってしまったのだろうかとドキマギしていると、拓也は不意に小さく息を吐き、浅く笑って長めの前髪を掻き上げた。

「本当に偶然、ですね。まさかこの人の作品がここにあるとは思いませんでしたよ」

「え?」

「神崎正造は、僕の祖父です」


 佳乃は惚けた顔でプレートと拓也を見比べたあと、ようやく息を吸い込んだ。

「ソフ……って、おじいさんてこと? これ描いたのアンタのおじいさんなの!?」

「ええ」

 拓也は佳乃から天使に視線を移し、眩しげにそれを見上げた。

「趣味で洋画を描いていることは知っていました。今まではなかなか暇がなかったようですが、現役を引退してからは絵の方も有名になったみたいですね。作品は今初めて目にしましたが、まさか、エマを――」

「え? エマって、あんたの知り合いなの? この綺麗な人?」

 はっとしたように拓也は口をつぐみ、佳乃からも絵からも顔を逸らした。そしてため息に混じる微かな声で「いいえ」と小さく答えたかと思うと、足早にその場を立ち去っていった。

 佳乃はもう一度大きな絵を見上げた。『エマ』という名の美しい天使は、拓也の去った方向をじっと見つめていた。整いすぎた故に、表情が読みとれない無機質な顔立ち。けれど今の佳乃には、その表情はとても切なく響いた。

(かなしそう……)

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