神様、早く帰ってくれ
@hurahura
第1話
「ね、正之輔。あのアイドルね。梅毒だったのよ! ビックリだよね。清純派とか言うけどさ。やっぱりやる事やってんだわ」
そう言ってカンナは空になったビール缶をポイッと投げ、豪快に笑った。
俺はビール缶を拾い、部屋の奥にあるゴミ箱に入れた。投げ入れた瞬間、虚しさを感じた。全く、なぜ俺がこんな事をしなければならないのだろう。
用事があるので早くこい、と携帯に着信があったので俺、蔵先正之輔は隣の205号室に住んでるカンナの部屋に来た。だがまさか用事が部屋の掃除と愚痴を聞かされる事とは思ってなかった。
部屋の端から端の長さは五歩程。狭い。とても狭い。部屋の中はゴミの山。しかも殆どがビールの空き缶なので吐き気がする。
それにこの狭い部屋にはエアコンが無いので少し暑い。酒臭さと微妙な熱気が混ざり合っている。そんな部屋にかれこれ二時間近くいるので、今リバースしかけている。
密閉された地獄の様な空間、だがカンナはとても開放的でアッケラカンとした様子で話を続けた。
「奥の歯。そう。親知らずね。とても大きいの。大根みたいな親知らずね。それが痛いからってね、抜くためにね、あのアイドル来たのよ。でね、でね」
カンナは目を輝かせながら話す。だがこの話は3回目だ。もうオチも知っている。
「はぁ。それで親知らず抜いたら大量の血が出たんでしょ。で、血液検査したら梅毒の抗体がみつかったんすよね」
「そうよ。そうなのよ。あーでもね。アレ? ていうか何で私こんな事言ってんのかしら? それに何であんた、私の部屋にいるの?」
「何でって……あんたが呼んだんでしょうが」
カンナは長い黒髪をかきあげて「アレ、そうだっけな」とトボけた表情で言い、コンビニ袋からまた缶ビールを取り出した。
「まだ飲むんですか。ていうか神様がそんなに飲んでいいんですか?」
「いいのよ。今は神じゃないもの。ていうか聞いてよ正之輔。あのハンギョ○ンに似たエロ親父がさ……」
カンナは今日の不平不満を全て吐き出す様に、長々と愚痴を語り出した。
今のカンナは例えるなら愚痴の生産工場だ。こうなるとカンナは止まらない。大量生産される愚痴。消費者は俺だけ。精神が世界恐慌並みに衰退していく。
テーブルの側に腰を下ろし、時計を確かめると三時だった。
来なければよかった、と思う。だが追い返したら追い返したで面倒になる。だから嫌でも聞くしかない。
「それでさ……ってあんたねぇ聞いてんの? 」
カンナがビール缶をテーブルに叩きつけ、こちらを見た。
「っ聞いてますよ」
「じゃあ今あたしが話してた内容は何よ!」
「えっと……たしか亀の交尾の話でしたっけ」
「そうよ。交尾中に発する亀の鳴き声と歯石除去エアタービンの音って少し似てるわよねっていう……って全然違うわ! 早く天界に戻りたいって話よ! 私は神なのよ……オッオェ」
大声を出したせいで吐きかけたのだろう、カンナは慌てて口を押さえた。
俺は水を汲みに台所へと急いだ。
普通なら「私は神だ」など酔っ払いの戯言程度で受け止めるが、それが嘘でない事を俺は知っている。奴を神様だと思いたくないが、カンナは神様だ。それも医療の神という高尚な存在。
カンナに水を渡し、俺はため息を吐いた。
水を持ってくる時に急いだせいか胸の中心、心臓の辺りが痛み出した。つい最近大怪我したばかりなので、まだ治ってないのかもしれない。
胸を押さえてると、カンナがこちらを睨んだ。
「どうしたのよ。痛むの?」
「ええ少し。だけど大丈夫です」
「ふぅん。あんたにはあたしが天界に戻るまで沢山働いてもらうんだもの。だから死なないでね。ま、取り敢えず診てみましょうか……ゲップ」
地鳴りの様なゲップをしながら、カンナは俺の胸に手を当てた。
数秒してカンナの指先から、見えない力の塊の様な物を感じた。
「心臓は治ってるわね。周りの臓器にも特に異常無し。強いていうなら胃が荒れてる事ぐらいかしら」
カンナが俺の腹を触ると、何かが胃の中をまさぐっている感覚がした。
一瞬吐いてしまいそうになる。かなり苦しい。この痛みはそう、ケチャップを一気飲みした時、胃が荒れて痛くなるのだが、この痛みはそれに似てる。
「カッカンナさん、ありがとうございます。もう大丈夫なんで。痛いと思ったのは気のせいです。すみません」
慌ててそう言うと、カンナは「あっそ」と手を離した。胃がかなり軽くなるのを感じ、先ほどよりかなり楽になった。
ホッと安心していると、カンナはこちらに笑顔を向けた。
「正之輔。何かあったら言いなさい。この医療の神であるカンナ様が治してあげるから……
だから私の手となり足となり奴隷となり、私が早く天界に戻れるよう全力で働きなさい。血も涙も一億匹のあなたも枯れるぐらいね。分かったわね」
口調が穏やかな為、けっこう鬼畜な事を言ってるのに嫌に感じない。
奴隷にはなりたくないが、手伝うくらいはいいだろう、と思ってしまう。
「はいはい。分かりましたよ。働きます。全力で働きますよカンナさん」
「そう
なら早速働いてもらおうかしら」
「何ですか?」
「私をね、トイレに連れてって。
あんたの胃を調べる時に力を使ったせいで……今ね。とてもね。
物凄くね…………吐きそう」
カンナは再び口を押さえた。背中がヒクヒクとまるで死にかけの淡水魚の様に動いている。
「っこの馬鹿!」
うずくまったカンナを抱き上げ、トイレに走った。
捨てられたビール缶を踏んづけたが、気にならなかった。
トイレの扉を開け、カンナを置いた。便器の横には風呂場がある。ユニットバスと言われる部屋だ。
「カンナさん。着きましたよ」
「あり……が」
「とう」を言い切らず、ふらふらとカンナは便器に向かった。
だが落ちていた石鹸を踏んづけてしまい、カンナは転んだ。俺を巻き込んで。
「カンナさん……あの、これって」
カンナの顔が真正面にあった。うっかり唇が触れてしまう程の近さ。カンナが俺に覆いかぶさっていた。
カンナは美人だ。今のこの状況、普通なら嬉しいとか恥ずかしい等の感情が湧くはずだが、不思議と何も湧かない。
「……が」
カンナの口が開いた。口の中は見えない。さて、そこから何が出てくるのやら。マイナスイオンとかなら良いんだけどな……いや違った。出てくるのは残骸と化した昨日の晩飯の百鬼夜行だ。
「神様、早く帰ってくれ」
諦めてユニットバスの天井を仰ぎ見ながら、俺は小さく言った。
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