第5話 命運を乗せた車
―狂っている。
この国を止める事などできない。
律した軍歩が戦争の序曲と化し、誰も立証してはないが
狂想に取り憑かれ、揺らぐ事のない「勝利」を確信し
戦争の火蓋が切られるその時を待ちわびている。
いや、待ちわびているなど
生温い感情なのかもしれない。
現世と一線を退く程の、白き幻想たる十京の車道を走る車の中で
後部座席に乗る一人の男は恐らくそう考えているのだろう。
―【一家惨殺】
ほんの数時間前に起こった出来事。
殺害された当時、その場に居た訳ではない彼は
現状を黙して受け止めなければいけなかったただ一人の生存者。
即ち、彼の家族全員が何者かに殺されたのだ。
「……あまり顔を外に向けないでください。御姿の所在がバレたら一大事です。」
「戦争の闊歩しか聞こえない、軍歌しか口にしない、そんな彼らがマトモな視力を持っているだろうか?」
自分の家族が全て殺されたというのに
穏やかな口調が、逆に畏怖を感じさせる。
血を同じとし、いずれは「継ぐ使命」もあっただろうその双肩は
喪失感に震える事も無く―ただ、蒸気に包まれた街並みを見つめていた。
彼の生存は、家族を殺した犯人にとって
想定内であったか、想定外であったか―車の運転を務める
一人の女性は焦燥感に切迫していた。
しかしどちらにしても、今此処に彼が居る以上―殺害に興じた
黒幕の追尾が迫っている事だけは熟知している。
だが、彼女の心がそれだけに支配されている訳ではない。
これから向かうある場所の「とある人物」に対する、第三者からの信頼を受け
車を走らせている。
しかしその信頼を寄せた第三者の言葉が未だ、彼女の中では消化しきれない。
たかが一人に何が出来る?
いや―「一人」と確定出来ていれば
彼女は恐らくその人物に頼る事なく、自らの力だけを信じて任務を果たそうとするだろう。
しかし現状はそう軽視出来ない。だからその「一人」の助力を求めよ―
そう言った第三者の頼れるべき【理由】
―それこそこの「ニチモト」とそう変わらない
狂想じみた言葉だった。
「……僕を殺すだろうか、それとも生かしたまま「確保」するだろうか?どっちだと思う。」
「恐れ多いですが確保されたとしても、黒幕の本来の目的さえ達せれば―どのみち殺されるでしょう。」
いずれにしても彼の運命は、今や国一つ動かす安全装置が取り外された「ただの引き金」に等しい。
彼女は彼をそう深く知る訳ではないが、一家が惨殺された理由と―また彼女に今後の提案を施した「第三者の死」
その二つの事件が結びつく一つの「希望」を、更地に帰すか貫くか
彼がどちらを選ぶか皆目つかぬ事すら疲弊を感じつつ、彼女の運転する車は目的地へと到着した。
「……」
声にもならない呼吸を一つ、ゆっくりと吐き出して
ハンドルから手を下ろす彼女は
万が一に備えた拳銃の有無を確認し、先に降りた。
そして周囲を警戒しながら車の止まった数歩先にある扉の前に立った。
―彼女は思う。
「……随分とくたびれた所にお住まいなのね。」
そう語るだけの雰囲気が滲み出る程、人の息吹も疑うような
寂れた一軒の施設があった。
民家ではない、かと言って公共の場でもない。
扉のすぐ横に立てかけてあった、手入れの行き届いてない看板には―
「冴木涼個人探偵事務所」と言う文字が書かれていた。
―
一目見ただけで、品格を疑い
やる気の無さすら感じ取れるその看板から、この施設の主を信頼すべき
理由を残して死した「第三者」の言葉に疑いを募らせても
今は時の猶予すら無い、尋ねるだけならばと彼女はベルを鳴らした。
―ジリリリリ
「……」
彼女は最初からこの場を見て、一回ベルを鳴らした所で
応答が聞けるとは思ってない。
「探偵事務所」を営むならば、来客に対して俊敏に応じるべきなのではと
正論を突き付けようにも、扉は無言を貫く。
「第三者」の言葉を聞いて
彼女が感じたのは「戯言」
在り得ない、否としか言いようがない―立場的な距離があったとしても
誰よりも縁は深いその人が、唯一迷い事を口にしたと落胆し
やはり頼れるのは自分だけ―と、告げる幾許か前にその人物は亡くなった。
―此処に居るのは、ただの「人」
彼女は一先ず調べていた。
昼行燈と称され、仕事の実績もそう高く評価されず、積まれてもない。
出来の悪い探偵という「人」
「もう一度鳴らしてはどうだい?」
「……っ!?」
車と彼女の立ち位置はそう遠くない。
後部座席に居た彼が窓を開け、扉の前で考えていた彼女に
提案するその一言は、声を張り上げずとも聞こえる。
しかし彼女は何が何でも彼を「保護」しなければならなかった。その使命とは裏腹に
彼は呑気に顔を出して再度呼び鈴を促した。
―その呑気さが、逆にこの国の命運を諦めているのかそれともただ立場に対する無知なだけなのか。一瞬彼女は考え―
「……」
「……"ファック"」
ふと芽生えたらしからぬ感情を
洋物の同意語で彼は笑うように代弁した。
一刻の猶予などない。
彼がそう望むならと、彼女はベルをもう一度鳴らし
応答が無ければこの場を速やかに去ると決め―
―ジリリリリ
―
「……」
―応答は、やはり無い。
留守ならば許すが、居留守なら―?
いずれにしても無言を貫く扉の前で無駄な時間を費やした事を
何とかため息一つで処理し彼女は扉に背を向けた。
―その時。
『ニャーァアア…』
―
「……猫?」
振り向いた彼女の眼下に座っていたのは
一匹の三毛猫だった。
丁度彼女と、その向こう側に駐車した車との間に挟まれて
じっとこちらを見ている猫に、彼女は視覚を一瞬疑った。
しかし、どう見ても猫。
野良ならこの辺を闊歩しても珍しくない。が、飼い猫なのか
鈴が付いた皮の首輪を見る。
そして彼女はもう一度扉に振り返ろうとした―
―もしかしたら、冴木と言う男の―
―
―ガチャッ!
「っ!?」
「うおっ!?やっぱりミッシェルじゃねぇか!」
彼女が完全に振り返る前に扉は開き、中から一人の男が現れ
一瞬猫に対してびっくりしつつ、捕まえるつもりなのか
間髪入れず猫に飛び掛かった―が、
『フギャアアアアッ!』
「あ!おい!待て!」
―ドサッ!
人間の俊敏力が動物に敵う訳もなく、男が試んだ捕獲の手をすり抜け
三毛猫は軽やかに走り去った。
宙を舞う、とは言わないが。コメディの様に滑稽な様で飛び掛かったその末路は
無残にも全身を地面に打ち付け、砂埃が舞う。
その醜態に一つ、後部座席から口笛が送られた。
「っの……どこまでも馬鹿にしやがって!」
「ちょ……っ」
「ああ!?何か用か!?」
自分を無視し、たかが何処かの飼い猫にだけ応じて
二度ベルを鳴らしても居留守を使って時間だけを浪費させた男の口調に
彼女は常日頃から培っていた理性を切らせ、ホルダーから拳銃を取り出した―
―スチャ【カチッ】ッ―
「っ!?」
「……来客にしては、物騒なもん持ってるんだな。」
―驚愕する、彼女の理由。
それはほんの僅かばかり、目の前に居る男が先に
銃口を向けていたからだ。
自画自賛とはいかずとも、他の人に劣りはしない―そう自信があった
彼女の俊敏さを上回る、謎の男性。
彼が―
「……貴方が冴木涼かしら?」
「違うと言ったら?」
「無駄足の対価位要求したいわ。」
「おいおい、勝手に間違えたくせに貪欲だな。」
間違っているはずはない。かと言って
今の段階で彼を「冴木涼」と立証する証拠など
このくたびれた看板のみ。
恐らく居留守を使い、猫にどんな私怨があるかは知らないが
状況を無視して結局捕獲できず、今―自分を冴木涼本人と問われても即答しない彼に
彼女は下唇を噛んだ。
―しかし、違う訳がない。
そこまで彼女は調べていた。
改めて言うならば、先程の事柄を分析し嘲笑を付加させて―
「猫も捕まえられない、昼行燈な探偵……貴方が冴木涼で間違いないわ。」
「敵意を仕舞わない限り応じねえ。厄介なのはごめんだからな。」
「貴方個人の心情を今暫く無視して頂きたいわ。一先ず中に案内してくださる?」
男―冴木の言葉に一切怯まず、銃口を向けたままの彼女の意思を面倒と思ったのか
冴木はため息をつき、自分から拳銃を仕舞った。
そして軽く手を振り、開きっぱなしの扉の奥へと消えていく。
彼女は一先ず目的の端に辿り着いたと自らも納得し、傍観していた後部座席の彼を護衛しながら
探偵事務所の中に入って行った。
―
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