カノジョと買い物(1)

 朝ごはんが終わって、歯磨きして髪の寝癖も整えた後――。

 僕はみゅうの指先を軽く持って、爪切りでぱちんぱちんと爪を切った。10日ほど前に切ったばかりだからそれほど伸びてるというわけではないのだが、みゅうはパソコンのキーボードを操作することが多いので、少しでも伸びてくると気になるらしい。

 人の爪を切るなんてことはしたことがなかったので、初めてやったときはひどく緊張した。爪切りの刃が、爪と指のあいだのどのあたりまで入ってるのか自分では感触がないため、おそるおそるちょっとずつ、まるで爪を削り取るようにして切った。でも、そろそろ慣れてきて自分で言うのもアレだけど、けっこう上手くなった気がする。

 爪を切った後、僕はタンスの棚の上に置いてあるネイルセットを持ってきて、みゅうの爪の表面を細かいヤスリで磨いた。縦に筋の入った爪の表面に艶が出てくる。

 そして、マニキュアのフタを回して開けた。軽く有機溶剤のようなにおいがする。それを塗ろうとしたとき、みゅうがいきなり手を引っ込めた。

「どうした?」

 みゅうは最初、テーブルの上をうろうろしていたが、すぐにパソコンデスクのほうへ向かおうとしたので、僕は立ち上がって電源ケーブルを引っ張りながらノートパソコンをみゅうのそばまで持ってきた。

「それ、たぶん足りない。もう残り少ないから、5つの爪には塗れないと思う」とみゅうがメモ帳に書いた。

「へ?」

 僕はマニキュアの小瓶を持ち上げて残量を確認してみた。確かによく見ると、瓶の底に1ミリを少し超えるくらいしか残っていない。

「あ、ホントだ。けっこう、なくなるの早いんだな。どうしよう」

「別に、かまわないよ。今日はナシでも」

「前にまちがって僕が買ったやつならあるけど」

「いや、あれはノーサンキュー」

 前にまちがって買ったやつとは、マキアージュ・グロッシーネールカラーのPK142だ。同じメーカーの同じ種類のものなら何でもいいのかと思って、本を買うときについでに通販で注文したのだが、こだわりがあるらしい。PK142は一度は塗ってはみたものの、みゅうはどうやらしっくりこなかったらしく、今でもほぼ新品状態で残っている。

 女性のネイルに対するこだわりは、男にはなかなか理解しにくい。ネクタイの色とも違う。靴下の色とも違う。

 みゅうは他の女性と違って、おしゃれをできる部分が物理的に制限されているので、できることは全部叶えてあげたいと僕は思っている。昔は化粧もほとんどしない、髪も染めない、ナチュラル美人だったみゅうだけど、今はけっこういろいろとおしゃれに気を使うようになった。リングはなぜか、ピンキーしか持ってない。

「そう。じゃあ、今日買って来よう。薬局にあるかな?」

「たぶん、あるよ」

「では、そろそろ出発しますか」

 僕はハンガーにストラップを通して吊るしてあるランニングバッグを手に取った。これは、ウエストポーチみたいな形をしていて、胴体にたすき掛けのように斜めに背負うバッグなのだが、僕たちが出かけるときには、みゅうにはこのバッグの中に隠れることになる。

 別に隠す必要性を僕は感じないのだが、みゅうの姿を発見した人はおそらくそれまでの生涯で経験したことないような衝撃を受けるだろうから、いらぬ騒ぎを起こさないために、そうしている。

 みゅうはもぞもぞと動いて、ヒジからバッグに入って行った。ファスナーを閉めようとすると、みゅうが手の平を左右に動かして、「バイバイ」というようなしぐさをした。

 ランニングバッグはふつう、バッグになる部分を背中に来るように背負うのだが、僕は胸の前にバッグが来るようにしている。まるでリュックサックを逆に背負ってるようなもので、多少不格好でその姿を人にジロジロ見られることもあるのだが、僕とは特に気にしない。

 バッグの中は狭くて暗いんじゃないかと心配してるのだが、バッグの緩衝材がふわふわで気持ちいいらしい。ただ、暑い日はちょっと耐えがたいようだが。

 僕はヘルメットをかぶり、胸にはみゅうが入ったランニングバッグ、背中にはペットボトルの水だけが入ったナップサックを背負って部屋を出た。

 扉の鍵を閉めてアパートの自転車置き場に行って、僕のロードバイク、キャノンデールにまたがった。この自転車は、少し太り気味だった僕がダイエットするために、ネットオークションで中古で買ったのだが、けっこう高い値段だった。

「たぶん1時間20分くらいだけど、ガマンしてね」と僕は自分の胸に向かって言った。

 バッグの中で、みゅうが僕の胸をトンと軽く一度だけ叩いた。

 目的地は、35キロほど離れた隣の市にあるショッピングモール。僕は左の手首に巻いたカシオのプロトレックを操作して、ストップウォッチに表示を変えた。前に行ったときは、1時間26分38秒だった。もちろん安全第一だが、もう少しタイムは縮められると思う。

 ちなみにプロトレックは主に登山者用に開発された時計らしいが、僕は登山はしない。なぜこれを買ったかというと、気温を計る機能もついてるからなのだが、いざ買ってみるとあまりその機能を使う機会はないことに気付いた。

「よしっ!」と僕は気合いを入れた。

 ストップウォッチを開始して、発進。

 これは厳密に言うと二人乗りになるのだろうか。

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