カノジョと朝ごはん。
目を覚ますとカーテンの隙間から白くて細い光が差し込んでいた。僕はまだ開ききらないまぶたを顔の筋肉で引き伸ばすように上げて、ベッドのすぐ近くにあるアナログタイプの目覚まし時計を見た。8時を5分ほど過ぎたところ。
今日は平日だけれども、前の日曜日に出勤したぶんの代休なので出勤しなくてもいい。もっと寝ていようかと少し悩んでいるうちにすっかり頭が起きてしまったので、僕はベッドから出た。
ベッドのちょうど中心部あたりに、左手だけの僕の恋人みゅうが転がっている。ぱっと見ただけでは、みゅうは寝ているのか起きているのか、よくわからない。閉じる目もなければいびきをかく鼻や口もない。ただし、ときどき寝返りを打つ。
はたして今日のみゅうは、寝ているのだろうか。それとも、寝たふりをしているのだろうか。僕は軽くみゅうの姿を凝視した。前に一度、寝たふりをしているのに気づかずに僕がぼんやりしていると、いきなり後ろからわきの下をこそばされたことがあった。
「起きてますか?」と僕は問いかけてみた。
みゅうのヒジから先がビクッと動いた。
たぶん、起きてる。
僕はベッドから抜け出し、パジャマを脱いでTシャツに着替えた。そして、手と顔を軽く洗って、台所へ向かう。
今日は僕が朝ごはん当番。何を作るかは、冷蔵庫の中身やその日の気分によるのだが、だいたい食パンにたまご、カットトマトとコーヒー若しくはオレンジスースというシンプルなメニューになることが多い。たまごはゆでたまごにするか目玉焼きにするかは、その日の気分による。
冷蔵庫から、3日前に近所のスーパーで4玉298円(税抜き)だったトマトをひとつ取り出して、へたを取って4つにカット。それを透明なガラスの器に適当に盛る。たまごは今日は目玉焼きにすることにした。オーブントースターに食パンを1枚入れて、ダイヤルの目盛りをセット。
僕はどうも、生卵を割るのが苦手だ。といっても、だいたいはうまく割れるのだが、10回に1回は殻が入ったり、黄身がつぶれてしまったりする。生来の不器用さがこんなところにも祟ってるのだろう。
小型のフライパンにサラダ油を薄くしいて、たまごを割り落した。うまくいった。透明な白身の底がさっと色付いて、ところどころ気泡の形が膨らむ。僕は生卵から目玉焼きに変形しつつあるそれに、塩を軽くふった。
たまにテレビの料理番組などで、料理人が片手だけでたまごを割ってるのを見て、僕はそれをまるで手品のように感じる。まあ、みゅうも片手割りが出来てしまうわけだが。
振り返ってみると、みゅうがベッドから起き出していた。どうやら今日はいたずらをするのは断念したようだ。抽斗の取っ手を器用につかんでパソコンデスクによじ登り、電源を入れた。
最初はみゅうが使いやすいように、パソコンは床の上に置きっぱなしにしていたのだが、同棲を始めてから1週間くらいで、夜中に僕がトイレに行こうとしたときにキーボードを踏んでしまって、「M」から「P」あたりまでのキーを割ってしまった。それ以来は、多少不便でもパソコンデスクの上に置くように変更した。
「おはよう」と僕は言った。
パソコンはウィンドウズの起動の最中なので、みゅうは手を振ってそれに応える。
「目玉焼きでいい?」
みゅうはペコリと手の平を下げて、もとに戻した。
「チンッ!」という高い音が鳴って、オーブンが食パンが焼けたことを告げる。フライパンに鍋のフタをのせて目玉焼きを蒸し焼きにする。その間、オーブンからパンを取り出してバターをぬる。
約1分後くらいにフライパンのフタを取ると、うまく黄身だけが半熟になった目玉焼きが完成していた。それをお皿にのせて、コップにミニッツメイドのオレンジジュースを注げば、見事、朝ごはんの完成。
僕はお皿とコップ、小さなハンドタオルを水で湿らせたおしぼりをお盆に乗せて机の上に運んだ。
「みゅう、できたよ」
みゅうはパソコンで、パソコンの天気予報を見ていた。
閉じていたカーテンをさっと開くと、明るい光がまぶしいくらいに光っていた。ベランダにいた数羽のハクセキレイが、一気に飛び立っていった。
僕は座布団の上に座って手を合わせ、
「いただきます」と言った。
みゅうも手を前に出して、右手があれば両手を合わせるようなしぐさをした。
朝食は一人前しかないが、これで問題はない。
みゅうはおしぼりの上で、手の平をこするようにして拭いた。
「はい」
トーストのお皿をみゅうの前に出すと、みゅうは小指の先でそれを撫でた。どういう仕組みになってのかよくわからないのだが、みゅうはそれで味を感じるらしい。これがみゅうの食事のしぐさということになる。
みゅうは消化・吸収はしないはずだが、なぜかあまり痩せることはない。食べすぎると、太ることはある。
「はい。こっちも」
目玉焼きのお皿を出すと、みゅうは遠慮がちに白身の部分に小指を当てて、それを軽く撫でた。
「ちょっと、塩少なかったかな?」
みゅうは人差し指と親指でマルを作った。
「黄身もいいよ」
みゅうは手の平を少しだけ持ち上げ、小指を突き立てて黄身に触れた。半熟の黄身の表面が割れて、濃く黄色い黄身がねばりながら白身の表面を垂れる。
僕はトーストをかじった。少し焼き過ぎになったのか、ザクリという少し低い音が口の中で響いた。みゅうはカットトマトの種が入ってる薄く緑色をした部分に指を付けた。
「ジュースは?」
僕がそういうと、みゅうは左右に手を振った。
「そう」
みゅうの食事は、これで終わり。ずいぶんと簡単だ。何よりも特徴的なのは、食べても減らないということだろうか。だから僕たちの家では、いつもご飯は一人前しか用意しない。必然的に、僕とみゅうは文字通り同じ物を食べるということになる。
食事を終えたみゅうは、おしぼりでもう一度きれいに手を拭いた。
この食事方法の違いから、いつもみゅうのほうが先に食べ終わることになるのだが、みゅうは僕が食べ終わるまでずっと机の上で待っている。別に僕をほったらかしにしてパソコンをいじってもらってもかまわないのだが、何やらこだわりがあるらしい。
「今日、天気は?」僕はトマトをフォークで突き刺しながら聞いた。
「はれ のち くもり 50%」とみゅうは人差し指を走らせて机の上に書いた。
僕は窓の外を見た。
「今はこんなに晴れてるのに、午後から曇るのかねえ。でもまあ、50%くらいだったら、問題ないか」
トマトを食べた後にオレンジジュースを飲むと、ひどく酸っぱく感じた。
「このトマト、甘いね。安売りしてたの買ったんだけど、トマトは今が旬なのかな?」
「トマトは ハウスさいばいが ほとんどだから あまり きせつは かんけいないよ」
「へえ。そうなんだ。今度、スーパーで安売りになってたら、1週間分くらい買っておこう」
僕がこんなにきちんと朝ごはんを食べるようになったのは、つい最近のこと。少し前までは、せいぜい食パンを焼かずにかじるかくらいか、マルチビタミンとマルチミネラルサプリメントとゼリー飲料、職場に行くまでに自販機で買う缶コーヒーだけという生活をしていた。
朝食が終わると、僕はお皿を重ねて台所のシンクに戻る。みゅうも一緒に。フライパンを洗って、ガスコンロの上に置くと、みゅうがヒジから先を伸ばしてスイッチを押し、フライパンを乾かすために火を点けた。
僕がお皿やコップを洗剤で洗ってすすぐと、みゅうがそれを水を切って布巾で拭いていく。特に役割分担を決めたというわけではないのだが、洗い物に関してはいつのまにかそういうふうになっていた。
洗い物も終わると、僕はいつものようにみゅうの腕にG-SHOCKを巻く。時間は朝8時36分。
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