カノジョとお風呂に入ります。
9月も半ばを過ぎて、夜になるとTシャツだけだと少し寒い。
みゅうは僕のノートパソコンのブラウザを開いて、詰将棋ができるホームページを開いている。みゅうは左手しか使えない、というか左手しかないので、僕のパソコンは左利き用に―つまりマウスが右ボタンと左ボタンが逆になるように設定を変更してある。
「10秒、9、8、7……」とパソコンのスピーカーから詰将棋の残り時間を示す声が聞こえてきた。みゅうは3四の場所に金を打つと、「ピンポーン」と正解の音がした。
女なのに、などと言ったら女性の方に怒られるかもしれないが、みゅうは将棋がやたら強い。なんでも小さいころに、おじいちゃんに仕込まれたとか。当時は穴熊囲いが全盛のころだったらしく、基本的に振り飛車党のみゅうが居飛車を指すときは穴熊に囲うことが多い。
僕もいちおう将棋は指せることは指せるが、みゅうにはまったく適わない。飛車落ちで互角と言ったところか。
一度みゅうに、「プロ棋士になろうと思ったことはないの?」と聞いたことがあるが、プロ棋士になるのが如何に難しいか、また、女性でプロ棋士の資格を得る四段まで昇段した人が未だに一人もいないことなどを僕に教えてくれた。要するに、なろうと思ったことはあるのだろう。
「みゅう、今日お風呂どうする? シャワーでいい?」と僕が聞くと、みゅうはブラウザを最小化してメモ帳を開いた。そして、
「出来ればお湯につかりたい」と書く。
「はいよ」と僕は立ち上がってお風呂場に向かう。
みゅうと同棲を始める前は、僕は湯船にお湯をためて風呂に入るなんてことはほとんどしたことがなかった。理由は、浴槽を掃除するのがめんどくさいから。一日に何人もお風呂に入るならともかく、僕一人しかいないのにお湯をためて掃除するなんて、ひどくめんどくさい。
しかし、今はみゅうと同棲しているので、そうとばかりは言ってられない。
僕は浴室に入り、薄い黄色をした洗剤で浴槽を擦って、シャワーで泡を流した。
お湯がたまるのを待っているあいだ、僕は部屋に戻ってソファベッドに腰を下ろした。みゅうは相変わらず、詰将棋を解いている。チラッと画面を覗いてみると、なんと21手詰めの問題らしい。詰将棋は手さえ動けば物理的には解けるが、頭も脳もないみゅうがなんでこんな難しい問題を解けるのか未だに不思議で仕方がない。
というか、目も鼻もないはずなのに、五感をどうやって感じてるんだろう。
「ねえ、みゅう」詰将棋の問題を解き終わるのを待ってから僕は声を掛けた。
みゅうは、まるで顔を振り向くかのように手の平をこっちに向けた。
「みゅうは耳もないのに、なんで聞こえるの?」と僕は率直に疑問を口にした。
「さあ。わかんない。でもいいじゃない。聞こえるんだもの」メモ帳に書く。
「そうだなあ。まあ気にしても仕方ないし、別にいいか」
みゅうはタイピングが早い。昔はローマ字入力だったが、僕と同棲を始めてから、かな入力を練習した。1か月経過するとすぐに慣れて、今はではローマ字入力を両手でやっている僕よりもタイピングが早い。
「大きな音がうるさいとか、明るすぎてまぶしいとか、そんなのはあるの?」
「うん。ある」
「そりゃ、大変だな。なんせうるさくても耳をふさぐわけにも、瞼を閉じるわけにもいかないから」
「そうなのよ。左腕だけって、けっこう不便なのよ」
そろそろお風呂にお湯がたまったころだ。僕は浴室に行ってお湯を止めた。そして部屋に戻って、
「みゅう、沸いたからお風呂行くよ」と言った。
みゅうはブラウザの「×」ボタンを押して、ウインドウズをシャットダウンした。僕はタンスの引き出しから着替えを取り出す。そして、みゅうの腕に巻いてあるカシオのG-SHOCKソーラー電波時計を外して机の上に置いた。
この時計は、僕がまだ学生だったころに、みゅうにあげたもの。僕が新しい腕時計を買ったので、ネットオークションに出品しようかと思ってたのだが、みゅうはやたらこれを欲しがった。男性用なので似合わないよと言ったのだが、みゅうは「オークションで売れるのと同じ値段で私が買うから、売って」と言うので、仕方ないからプレゼントした。
僕が手の平を出すと、みゅうはそれをしっかりとつかんだ。そしてみゅうを抱き上げる。やはり、重い。3キロ以上はありそうだ。でも体重を計ろうとすると、前みたいにめちゃくちゃ怒られるだろう。
僕は裸になってお風呂に入る。もちろんみゅうも一緒に。お風呂に浸かるときは、みゅうが溺れないようにヒジのあたりを持って、手首から上を水面の上から出しておく。
「ああ~、いい気持ちだなあ。疲れが吹き飛んでいく」と僕は言った。
お湯の温度に刺激されて、足の裏や背中の真ん中あたりの血行が良くなっていくのが手に取るようにわかった。
みゅうは人差し指を立てて、手首から先を動かして僕の胸に文字を書く。
「さいきん しごと どう?」
「どうって、特に変わりはないよ。先輩と一緒に、郊外の住宅街に飛び込み営業」
「うまく いってる?」
「いや、ぜんぜん。ほとんどが訪問してもめんどくさがられるだけで終わりだなあ。先輩が言うには、家のリフォームって古い家よりも築10年から20年くらいの家に住んでる人のほうが話を聞いてもらいやすいんだって。築30超えたら、リフォームするくらいなら建て替を考える人が多いみたいだから」
「へえ」
正直に言って、僕の会社はそんなに良いところじゃない。個人が相手の商売なので深夜まで営業に出されるなんてことはないが、土日が出勤になることも多い。成績が悪ければ、給料も安い。唯一いいところは、職場の先輩に面倒見がいい人が多いことくらい。まあ、それがあるから辞めずにいるのだが。
「みゅう、身体洗ってあげるよ」
身体と言っても、腕だけなのだが。みゅうは自分の身体を洗うのが非常に難しいので、それは僕の役目になっている。みゅうを抱き上げて、お湯を薄く張った洗面器に置いて、僕は手で石鹸を泡立てた。そして泡をみゅうの身体に付けて、手の平で軽くこするようにして洗った。
「どこか、かゆいところはありませんか?」と僕はまるで理容師のように言った。
みゅうは手の平をひろげて、左右に振った。
僕は人差し指と親指で、みゅうの手の又になっている部分をつまむようにしてこする。みゅうが言うには、この部分は汚れがたまりやすいらしいのだが、僕はいまいちよくわからない。足の指ならともかく、手のこの部分を意識して丁寧に洗ったことはない。
ヒジから指先まで一通り洗うと、僕はみゅうにお湯をかけて泡を流した。そしてもう一度みゅうを抱きかかえてお湯に浸ける。
「ありがと」という文字をみゅうが僕の胸に書いた。
「いえいえ、どういたしまして」
お風呂から上がると、僕はバスタオルで、みゅうは洗面台の上に置いたハンドタオルで身体に付いた水滴を拭く。みゅうは左右に転がるようにして自分の身体を拭くのだが、慣れたもので、その動作できちんと腕全体に付いた水をきれいに吹き取る。
そして部屋に戻ると、みゅうにハンドクリームを塗るのが僕の日課になっている。僕は産まれてこの方、ハンドクリームなどは使ったことはないのだが、みゅうにはこだわりがあって、某社の「モアディープ 」という薬用ハンドクリームじゃないといけないらしい。
お店でこれを買うのは恥ずかしいので、ネット通販で購入している。
ようやく僕も、ハンドクリームの塗り方がうまくなってきた。手の甲の中指の付け根あたりにひとすくいのクリームを置くように塗って、それを徐々に広げていくように伸ばしていく。指先は、つまむようにして塗る。手首のあたりは、手首を握ってそれを腕のほうにずらしていくようにする。
それらの動作を繰り返せしていけば、みゅうのお肌はしっとりなめらかになる。それが終わると、僕はG-SHOCKをもう一度みゅうの手首に巻いた。
最近、僕の手も少ししっとりしてきた。
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