6-4. 交渉の結果(7)

          *

 雨は打ちつけるように激しく、風はごうごうと音を立てて吹きすさぶ。視界は雨で白く遮られ、数メートル先も見通せない。

 今、ユウキたちは風の守りを少し緩めていた。雨粒の痛さを感じない程度に、風に吹き飛ばされない程度に守りを調整し、各々がある程度動ける余裕を作ったのだ。

 結果、ユウキたちは完全に濡れ鼠と化した。耳も激しい雨音にふさがれる。

「そっちはどうだ!?」

 声を張り上げて問うスイセイ。雨の向こうに見える影がだんだんと近づいてくる。この嵐のせいで、ある程度まで近づかなくては会話もままならなかった。

「駄目。もう制御できない!」

 ユウキもまた近づきながら叫んだ。

 ユウキは少し前まで嵐を誘導するために風の手を伸ばしていた。だがその手も嵐に触れるや否や簡単に弾かれてしまい制御を失う。それは他の風捕りたちも同様だった。

「わかった。次! 進路確認っ」

 今度の問いかけは遊離隊員に対してのもの。そちらもすぐに答えが返される。

「南西です! このままの速度であれば! およそ十五分後に! トーツ軍の陣をかすめると推定! 中程度の効果が見込まれます!」

 その報告を受けながらユウキはスイセイと合流した。やはり少し離れた場所に人影がぼんやりと見える。それが今答えた遊離隊員だろう。

 ユウキたちの現在地はトーツ軍の陣から北東に数キロというところ。今は足を止めているが、嵐を追いかける形でその陣に向かって進んでいた。

 スイセイはここで馬を止める前に、いくつかの報告を受けていた。

 一つは交戦地点の偵察に向かった遊離隊員たちによる報告。戦場から引き上げ始めたトーツ兵の半数は嵐にのまれ、残る半数は間もなく陣で留守居をしていた兵たちと合流するだろうという内容。

 また、陣のほうの偵察に向かった者による報告もあった。少し前まで天幕に引きこもり雨風を凌いでいた留守居の兵たちが、風が強まり始めたことで危機感を覚えたのか、陣の撤収作業に入ったという。

 そんなトーツ軍の陣に嵐をぶつけることができれば、より確実に彼らの心をくじけるだろう。そう考えたスイセイがユウキたちに嵐の誘導を指示したのだ。

 結果として嵐の誘導には失敗してしまったが、現状のままでも進路は大きく外れてはいない。目的は達せられそうだった。

「この勢いならかすめるだけでも十分か。よし、これは運に任せる。あとは……そうだな、うちの軍は?」

「シュセン軍はメロアの町への撤退を予定しておりましたが、事前に仕込んでいた風の守りが思いのほか抗力を発揮したため、町まで戻らずに手前で停止し、現在は待機に入ってます」

 スイセイが前髪を顔に張りつかせたままニヤリと笑う。

「ってことは、あっちも問題ねぇわけだ。んじゃ――移動再開」

 激しい嵐にさらされて、体力的にも精神的にも辛いだろうに、皆の足取りは軽かった。

 嵐の到達が二時間遅れになるなどのトラブルはあったものの、以降は大きな問題もなく、現状を見るにおおむねね成功と言えた。

 ユウキもまた、スイセイに再び馬上に引き上げてもらいながら、ほっと息をついた。



 そして――。

 嵐の去ったあとにはいくつもの水たまりができていた。雲間から差し込んだ日の光は、薄暗い空気を割るように光のすじを伸ばし、大地を照らす。そんな光を受けた水たまりは切れ切れとなった雲と空の青を綺麗に映していた。

 けれど、見えたのはそんな自然の景色だけではなかった。

 ここはトーツ軍が陣を敷いていたという場所。やってきたユウキは眼前に広がる無残な光景を目の当たりにして絶句していた。

 天幕は吹き飛ばされてゴミのように散らばり、ひしゃげた盾や鎧、持ち主を失った剣などがいたるところに落ちている。

 そしてそこには多くの兵たちもまた倒れ伏していた。おそらく岩や地面に叩きつけられてしまったのだろう。四肢があり得ぬ方向に曲がっていたり、頭部から流血していたりする。呪いのようなうめき声は場所を特定できないくらいいたる所から聞こえていた。

 伏しているトーツ兵の数は一見しただけでも百近く。交戦地点での被害を含めると一体どれほどの数になるだろうか。考えるのも恐ろしかった。

 呻き声が聞こえるということはまだ生きているのだろう。けれど助けが来なければ、彼らの行く末には死しかない。敵兵ではあるけれど死んでほしくない。そう思うのはシュセンに対する裏切りになってしまうだろうか。

 ユウキは長いこと動けずにその場に立ち尽くしていた。

 そんなユウキたちに遅れること一時間。町に引き上げたはずのシュセン軍の一部が戻ってきた。彼らは一斉に散開すると伏している兵たちを確認を始めた。特にとどめを刺すわけでもなく、ただ確認しているだけなのは敵将を探しているからかもしれない。

 殺して叛意はんいを持たせることは避けたいが、生存者を全員捕虜にしては手に余る、というのがシュセンの本音だろう。停戦に持ち込みたいシュセンとしては、ある程度の地位を持つ者たちだけ拘束できれば十分だった。

 やがて、ユウキの近くにもシュセン兵がやってきた。そのシュセン兵はうつぶせになっていたトーツ兵を足で蹴って転がす。

 トーツ兵が仰向けになった。そしてわずかに遅れてごろりと頭が回転する。

 そのトーツ兵の顔がユウキの方を向いた。白目をむいている右目。膜が張ったかのようににごっている左目。肌は雨のせいかふやけて白く、唇は黒く変色していた。

 ぞわりと鳥肌が立った。悲鳴は出ない。ただただその男から目が離せなくなった。歯がカチカチと鳴る。その音が耳障りだった。

 ユウキは無意識のうちに、伏しているトーツ兵たちが死んでいるという可能性を思考の外に追いやっていた。自分たちが生み出した嵐がどのような結果をもたらすのか、考えたくなかったのかもしれない。

 嵐を呼べば戦いは止まる。けれど、風の守りを持たないトーツ兵たちは、吹き飛ばされて岩にぶつかったり、飛んできた物によって怪我をしたりしていた。

 その打ち所が悪ければ命を落とす。全員が無事でいられる可能性がきわめて低いことなど、考えればわかることだった。

「あー、馬鹿」

 突然ユウキの視界が真っ暗になった。ユウキの目を覆うのは大きな手――スイセイの手だった。

「スイセイ、ちょっと!」

「見るな馬鹿。目が離せなくなんだろ」

 スイセイには予想がついていたようだ。だが、スイセイによって視界がさえぎられた今も、先程の男の表情はまぶたの裏に焼きついて離れない。

 多分、これから何度も夢に見ることになるだろう。そのたびにうなされて飛び起きる、そんな未来が容易に想像できた。

 けれど、それが自分の負うべき責任なのだろうとユウキは思う。これが自分の引き起こしたことの結果なのだと、忘れてはいけないと思った。

 ちゃんと見よう、とユウキは目を覆っているスイセイの手に手を伸ばす。そしてその硬い手を外そうと力を入れるが、びくともしなかった。力が入っているようには感じられないのに、何故か全く動かない。

「スイっ……」

「また余計なこと考えてんな。……あのな。言っただろ、大丈夫だって。こーゆーのは本職に任せとけっての」

 責任は自分にあるとスイセイは言っているのだろう。けれどユウキは納得できなかった。実際に手を下したのはユウキだ。やると決めたのも、風捕りたちに協力を呼びかけたのも。ユウキがいなければこの作戦は実行できなかった。

 ユウキの意思の固さを見てスイセイが深々とため息をつく。

「んなら、どうするってんだよ。忘れないために一人一人見てくとか言うなよ? それがつぐないとかありえねぇからな? んなの、自己満足でしかねぇ」

「でも……。だって、亡くなった人に申し訳が立たない」

「やろうがやるまいが変わらねぇよ。むしろ余計なことすんじゃねぇっての。そんで落ち込んだあんたつれて歩くとかはっきし言って迷惑」

 ユウキはぽかんとした。咄嗟には意味が理解できない。

「迷惑だって言ってんの、迷惑」

 随分と酷い言い草だ。これまでの信用を全て捨て去ってもいいくらい酷い言葉だった。

 けれどそこに込められた思いに気づけないユウキではない。ユウキは思わずぎゅっと服を握りしめた。頭上で静かに息が吐かれる。

「俺だって心配くらいする。見知らぬ間柄じゃねぇんだから」

 不意に声色が優しくなった。そしてユウキの目からは涙があふれ出す。

 それからしばらくユウキはえぐえぐと泣いた。

 人が死ぬのは怖い。変な方向に曲がった四肢が、焦点の合わなくなった視線が、服を染めるどす黒い血が、その全てが瞼に焼きついていた。

 それが涙とともに徐々に薄れていていく。

 見なきゃいけないのだと思っていた。覚えておかなければ申し訳が立たないと思っていた。けれど、そんなことしなくていいのだとスイセイは言ってくれた。

 そしてそれを証明するようにユウキの目を塞いだ。たとえ、何故目をそむけたのだとユウキが責められても、スイセイに視界を塞がれていたのだと言い訳ができるように。そんな逃げ道をスイセイはユウキに用意してくれていた。

 スイセイらしくない遠回しな優しさに、ユウキは胸が一杯になった。

「スイセイの馬鹿」

「ユウキほどじゃねぇだろ」

「阿呆」

「先に同じ」

 ユウキが本気で言っていないからというのもあるが、空気を押したときのような手応えのなさだった。けれどそんなやり取りが少し楽しい。

「――らしくないよ」

 ちょっと悔しくて口をとがらせると、スイセイはからからと笑った。

「そう言うあんたは可愛くない」

「ひどい。……でも、ありがとう」

 涙はもう止まっていた。同時に、まだ全てが終わったわけではないのだと思い出す。けれど、今この瞬間だけは何も考えたくなくて、ユウキは目を塞がれたまましばらくじっとしていた。

 そしてスイセイがその手を外したのは、更にあと、名のある敵将たちが発見、拘束されたとの報告が入ってからだった。

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