1-3. 親心と私心(3)

          *


 また、天井の影が揺らめいた。

 きっと外はいい天気なのだろう。鼻孔をくすぐる風からも心なし太陽の香りがしている。

 こうして只人ただびととして死を迎えられることをジャンは天、そしてユウキに感謝した。


 ユウキと出会うまでは、自分がこんな穏やかな最後を迎えられるとは思っていなかった。

 全てはユウキのおかげだ。ユウキがジャンに幸福を運んでくれた。

 だがそれもここまでだ。ここまでにすべきだ。

 これ以上は、ジャンはユウキの足枷にしかならない。自分の看病などでユウキの自由な時間を奪いたくなかった。だからといって、自分のことなど捨て置いてくれと言ってもユウキは聞かないだろう。


 ――もういい。もう、このままいさぎよこう。


 大切なことは全て手紙に書き記した。だから大丈夫――。


 ――いや、駄目だ。


 ジャンの中に急速なあせりが生じる。

 肝心な手紙の存在をまだユウキに伝えていなかった。ユウキは文字が読めないため、渡すときに読んでもらえるよう手紙ごとアキトに託してある。だが、アキトの訪れは気まぐれだ。ユウキに一言伝えておかねば行き違ってしまうかもしれない。


 ユウキのためにも、それを伝えるまでは死ねなかった。

 だが、そんな必死な想いに反して、思考はだんだんとかすみがかってくる。意識が途切れ途切れになっているような気さえした。それは眠りに落ちる前にうつらうつらとする感覚に似ていたが、先に待つのはただの眠りではなく永遠の眠りだろう。

 まだそれに身をゆだねるわけにはいかなかった。


 ――あぁ、ユウキの笑顔が見たい。


 こんな状況でふいに思い浮かんだのはそんな願望だった。待つことしかできない状況で自分の頭はいかれてしまったのかもしれないとジャンは思う。

 だが、ユウキの笑顔を見たいのは本当だ。ジャンに生きる力を与えてくれたあの笑顔を、最後にもう一度見られたらどんなに幸せだろうか。

 そうしている間にも死の足音がだんだんと近づいてくる。

 このままでは笑顔を見るどころか、もう一度会うことさえ危うい――と考えたそのとき。


「おじいちゃん!」


 待ち焦がれていた声がした。自然と頬が緩み、笑みが浮かぶ。

 そして最後の力を振り絞り、重いまぶたを持ち上げた。



 ジャンは顔を曇らせる。目を開けた先に、期待したユウキの顔は見えなかった。

 ただぼんやりとした肌色だけが辛うじてわかった。瞬きをすればもっと見えるようになるかもしれないが、そうしようにも、現状、開けているのがやっとで、まぶたを閉じたが最後、もう一度開ける自信はなかった。


 ――あぁ。


 ジャンは嘆いた。目の前にユウキがいるというのに、その姿を見ることすら叶わなかった。一度期待してしまったがために、地獄に突き落とされたかのような絶望を感じる。


 一瞬か永遠か。

 もはや時間感覚のなくなったジャンにはわからない。だが、それだけの時間を経てようやく、もうほとんど目が見えないのだという事実を受け入れた。もう、ユウキの顔を見ることは叶わないのだと理解した。

 代わりに、ゆっくりと口を開く。


「……がみを」


 手紙をアキトに預けてあると伝えたかった。

 だが、発した声はひどくかすれていて、これではおそらく聞き取れなかっただろう。


 もう一度、と思い口を開くが、今度はヒュウヒュウと空気の抜ける音がするだけで、全く言葉にならなかった。

 これでは伝えられない――。

 乾ききった目から涙があふれた――気がした。様々な思いが奔流ほんりゅうとなって荒れ狂う。


 見たいのに見えない。

 伝えなければならないのに、伝えられない。

 悔しかった。もう時間がないのに、これが最後の機会なのに、と。


 ――罰が、当たったか……。


 ジャンは悟る。

 ジャンにとってユウキとの出会いは、それ自体が夢のようなことだった。罪深い自分には許されざる幸運だった。

 本当はそれで満足しなければならなかったのだ。

 それなのにあのとき。ジャンはユウキを手放したくないがために、すぐに両親を探さなかった。そのせいでユウキに大事なことを伝える機会を失った。


 もっと早くに真実を知るべきだった。そして、ユウキを手放すべきだった。今となってはもう誰かに託すこともできない。

 ユウキを一人にしてしまうこと、それが一番の心残りだった。


 それでも、ずっと一緒にいられてよかったと思ってしまう自分がいる。もし昔に戻れたとしても、また同じ決断をしてしまうだろうと確信している。

 そのせいで、ユウキが苦難に見舞われるかもしれないとわかっているのに――。



 手紙さえ渡せれば、そのリスクは減らせるはずだった。だが渡せないのでは意味がない。

 現状では、いつユウキが手紙の内容を知られるかはアキトにゆだねられている。ユウキがここに留まっている間にアキトが訪ねてきてくれればいいが。


 ただ、心配は心配だが絶望はしなかった。ユウキならどんな苦難の道でも乗り越えられるとジャンは知っていた。

 ジャンはユウキを案ずると同時に信じてもいた。



 視界のすみに、いつの間にか大きくなっていたユウキの手が見えた。その手は、もう力の入らないジャンの手に伸ばされる。

 そして、触れると思った瞬間――すっとき消えた。


「…キ……」


 窓から日が差し込んだ。光は部屋中に広がり、周囲を真っ白に染め上げる。


 ジャンは目を閉じた。

 まぶたの裏に大好きなユウキの笑顔を思い浮かべ、自身の全てをかけて願う。



 ――ユウキ。どうか、幸せに。

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